伝承は現と虚の間で生まれ実を結ぶ(弐)- 秋田県

この季節ともなると、さすがに気温にも地域ごとの差が見られます。
特に最低気温の方、私の住んでいる近畿地方南部では低くても15〜16℃といったところですが、九州であれば18〜20℃、東北地方になれば10℃を割り込みそうな寒い日も・・。

今回のお話の舞台、冬も間近な秋田県 それも山頂における深夜から早朝ともなれば、身を凍らせるような寒さなのではないでしょうか。

外界では まださほどの寒さではありませんが、季節の変わり目、些細なうたた寝などから来る風邪などには充分ご注意ください・・。

 

======

凍えるような寒さの上に、この世のものとは思えない赤子の重さ。もはや手放す事さえできず腕も腰も痺れきって、意識も遠のきかけていた その時、ようやく戻ってきた母親の声・・。 まともな判断さえままならない永蔵のもとから、おなごは赤子を受け取りました・・

『四ツ車 大八』(後編)

何ということ 永蔵があれほど苦心して抱いていた赤子を軽々と胸に抱き上げるではないか・・

その様子にたまげた永蔵
「お・・おめえは おなごに似合わず何たら力持ちだな・・」

すると どうしたことだろう? いつの間にかおなごの体が光に包まれておるではないか・・

「永蔵 我はこの太平山三吉の明神なり そなたの胆力と忍耐を図らんがため赤子を抱かせたのだ よくぞ これまでに耐えたものよ」

「その意気に免じて力の程を授けてつかわそう そは まこと無限の力であるぞ・・・」

その様は見た目こそ赤子を抱くおなごの姿であったが それはもう威厳に満ちた神様であった

見事に霊験は現れたのだ その言葉に永蔵は その場に平伏し
「まっ・・まことに有難き幸せ!・・」

痺れ苦しんだ体の痛みも何処へやら 今はもう胸が詰まる思いだった・・

辺りの静けさに気が付き そろそろと面を上げた時 そこには既に おなごの姿はなかったと・・

空が白みはじめ まわりの木々からは薄っすらと陽射しが射し込んでおったそうな

永蔵の体には力がみなぎっておった
それは今までのものとは全く違う 果てしなく大きく重く 動かし難き山のような力であった 社を後に山を降りるとき 地に足がめり込む程の力の重さであったという・・

後 永蔵は江戸に出て関取となり大出世したと

四股名「四ツ車大八」を受け継ぎ その名は世に鳴り響いたのだそうな

======

 

最後の最後でようやく題名「四ツ車大八」の名が出てきましたねw。

現在の秋田市五城目の生まれ、江戸時代の中期に活躍した力士です。
少し前にお伝えした「朝日嶽 鶴之助」と同じく出羽国出身(当時は山形県と秋田県を足した地域)、大力で名を馳せた出世ストーリーとも言えますね。

只、四ツ車大八、出世とはいえ残念ながら横綱にまでは達せず、前頭三枚目が最高位だったのですが、それでも三役に手が届く位置、会社組織に例えるならば 上位部長もしくは常務クラスといった感じでしょうか・・?

そんな彼が世の話題となり、果ては歌舞伎や講談の演目にまで上ったのは文化二年(1805年)に起こった ひとつの事件が元でありました。

 

後に「め組の喧嘩」と呼ばれる、江戸の町火消し “め組” の鳶(トビ)たちと、興行を行っていた力士たちの乱闘事件です。

元を正せば、その時 芝の明神境内で行われていた相撲興行に、町火消し “め組” の関係者が無銭見物しようとして、それを咎められたのが発端でした。

つまらないことが原因で起こったいざこざは、間に仲裁も入って一旦収まりかけたものの間を置いて再燃、こじれにこじれて、ついには鳶職・力士合わせて 数十人の逮捕者まで出す大騒動となってしまいました。

芝明神前で大立ち回りを演じる四ツ車大八

このとき曖昧な幕引きを嫌った “四ツ車大八” は力士側の中心的人物として動いたのだそうです。 一方 “め組” 側はめ組側で、火事のとき以外 使用してはならない “半鐘” を打ち鳴らしてまで、仲間をかき集め喧嘩に臨むという乱れ様・・。

言ってみれば我儘で、血の気の多い若い衆たちの大喧嘩なのですが、この事件が舞台の題材にまでなったのは、その後の “お上” による裁定が “粋” とされたからでしょう。

 

下らない事件とはいえ、このまま捨て置けば火災時の消火活動に支障が出兼ねない。休止状態となっている町民の娯楽、相撲興行も早期の再開が望まれる。 また中途な判定は人々の感情を逆撫でするおそれもある・・。

事件は 相撲の管轄である “寺社奉行”、火消しの管轄である “町奉行”、さらには “勘定奉行” までが関わって三者協議に及ぶ、極めて珍しい形で論議されました。

その結果、そもそもの発端である “め組” 側から三名、”力士” 側から一名に軽めの懲罰を与えた上で・・、「自然に(勝手に)鳴り響いて 関係者たちの好戦感情を煽った」と “半鐘” を事件の主犯と認定。 櫓から半鐘を降ろして、何とそのまま “遠島処分” としたそうです。

可哀想に 半鐘にしてみれば濡れ衣もいいところ。随分 とばっちりな判決でしたが、明治時代になって罪が赦され?w、芝の明神に戻されたのだとか・・。 現在も時に観覧可能なので、機会があれば見に行かれるのも一興でしょうか・・。

======

さて、想定以上に文字数も消化してしまいましたが、予定どおり次のお話にかかると致しましょう。

民話といえば昔話と同義の印象もあり、ついぞ 江戸時代やそれ以前に生まれた認識が強いですが、言い換えれば “民間伝承”、いつの時代でも その下地さえ整えば、いつしか自然に発祥するものです。 (さすがに現代社会においては “民間伝承” というより “都市伝説” のかたちとなってしまいますが・・)

文明開化の日が昇ったとはいえ、何かと曖昧でまだ社会の端々に未解明が息づいていた明治時代、こんな話が生まれたようです。「四ツ車大八」ではありませんが、こちらも “我慢” に続くお話です。 その名も・・

 

『がんばり』

秋田県の南部 湯沢の秋葉の権現さんといえば 里からも少し奥まった山の中ほどで
さほどに大きなお社でもなく 足を運ぶ人も限られておるのだが・・

それでも ここで開かれる夏越の夜祭りは 村の衆にとって かけがえのない楽しみであり
それなりに賑わったもんじゃったと

中でも皆に人気なのは その年の話題となった出来事や事件を模した “ニュース人形” と呼ばれる 等身大の造り人形じゃった

数体の人形を拵えて出来事の顛末を大仰に また面白おかしく再現する・・ 立体式の絵巻物といった感じじゃな

磐梯山の噴火災害から町の銀行で起こった大きな事件  果てに これといった事件がない時にゃ 何処そこの夫婦喧嘩だの性悪の高利貸しの話まで持ち込まれ 再現されておったのだから いえば今どきのタブロイドのごときものであったかもしれん・・

さて その年も祭りの季節は巡ってきた
準備の者たちは汗だくになって祭りの屋台や人形の設えに精を出している

ところが ようやく準備も整い 用意も終い近くになったところで・・

何の話(ニュース)じゃったか 人形話の最後の場面に “鬼” の人形が一体 足らぬところとなってしもうた

既に日も傾いており 材料も今からでは間に合わん
さりとて 締めの場面で鬼がいないと格好がつかん

どうすんべ? どうすんべ? と話し合うた挙げ句

誰か鬼の面を借りてきて それを被って立っていりゃ良いんじゃねぇか? という話になった・・

 

「誰か 鬼の人形役 やんねぇかぁ? 二升出すぞ! 二升!(お酒)」
ということになって とうとう門前の初五郎という男に白羽の矢が立ったと

二升の酒手を聞いた初五郎
「そういう事なら仕方がねぇ 引き受けましょう!」まんざらでもない様子

それじゃまあ とばかり 皆して初五郎の体に弁柄と炭を塗りたくり
誰かが借りてきた 鬼の面を被せて “生きた鬼人形” が出来上がった

あまり目立たんように藪の影近くに立たせ こう言い含めたと・・

「よっしゃ! 上出来じゃ! 人形なんじゃから そのまま動かんようにな」
「動かずにおるだけで二升じゃ二升! 頑張れよ!」 「初さん 頼んだぞ!」

・・・・・

======
“出オチ” という言葉がありますが、このお話も凡そ顛末が分かりそうな感じですね。
さて、初五郎、最後まで頑張れますでしょうか・・?

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください