東北に花咲く横綱は身も心も男前だった – 山形県

先日のポスト “八乙女に導かれし皇子・・” は山形県(出羽国)からの伝承でしたが、再掲載記事でもありました。 ・・だから、というわけでもありませんが、今回改めて山形県に連なるトピックスを取り上げてみたいと思います。

時は幕末、そして明治に至る、言わば日本がそれまでの歴史に区切りをつけ大転換を迎えた動乱の時代。 侍と、士分による統治が過去のものとなり、社会と人民のあり方・考え方も大きく変わっていった頃のお話です。

新潟県と山形県の県境に朝日連峰という名の山脈があります。その主峰は大朝日岳(標高1,870m)といって山形県側に属し、山々を総括して “朝日岳” と称するそうですが・・、この山名に因む関取(大相撲力士)が幕末から明治にかけて活躍していました。

朝日嶽 鶴之助(あさひだけ つるのすけ)、山容のごとく新潟県に生まれ、幼き内に山形県に移り、そこから角界に見込まれ大関以上にまで昇進を遂げた力士です。

本名は “庄蔵”。 新潟県 岩船の農家の子として生まれましたが、七歳の時に父親を無くし、山形県 温海(あつみ・現在の鶴岡市地域)の漁夫のもとへ養子に出されました。

冬場ともなれば氷のような、そして荒れ狂う鉛色の海へ小舟で漕ぎ出し “タラ漁” に終日励むという過酷な少年時代を過ごしますが、同時にそれに耐えうる以上の筋骨と精神力を身につけていったようです。

十三の歳、7尋(ひろ・11m位)の舟を浜辺でひとり引き揚げている様が、土地の藩士の目に留まり、藩抱えの人足として雇い入れられることとなりました。

人足として河川や寺社の工事、そして城内への出入りを許され修理普請に日々務める庄蔵。 やがて、その真面目さと豪腕ぶりが 藩主(酒井忠発?)に認められるところとなり、相撲好きだった酒井 侯は彼を私費によって、同地の相撲部屋 “龍田川” へと入門させたそうです。

はじめて受けた四股名は里の名を用いて “由良ノ海庄蔵”、 親方にも見込まれた庄蔵は厳しい稽古にも耐え抜き、メキメキと己が力に磨きをかけていきます。 万延元年(1860年)幕下二段の段位で臨んだ秋場所が、初の土俵だったのだとか。

ニ年後の文久2年、四股名を上記の朝日岳から頂き「朝日嶽」と改名、以降、故郷に錦を飾る日を夢見て場所を踏んでいきます。

腕と体に自信を持つ 日本中の力士が集まる江戸の大相撲、朝日嶽とてすぐさま芽が出たわけではありません。 しかし 実直な性分、より厳しい稽古を厭わない姿勢は着実に彼の血となり肉と身につき、大関から銀星を勝ち取るなど躍進を重ね、初土俵から8年後にはついに念願の “入幕” へと辿り着きました。 大きな成果を迎えたのです。

・・しかし、この初入幕の場所、朝日嶽は千秋楽を迎えることが出来ませんでした。
場所途中から全てを放棄、大相撲から忽然と姿を消したのです・・。

 

入幕も果たし前途の開けた朝日嶽に、このような決心と行動をさせたのは京都で勃発した “鳥羽伏見の戦い” でした。

幕府軍と新政府軍、国を分けての幕末の内戦 “戊辰戦争” 。 不穏な空気が渦巻く世相の中、ついに火蓋が切られた両軍の衝突は後に知られるごとく “幕府軍” の敗退となります。

朝日嶽の故郷、庄内藩は徳川幕府創立以来の譜代大名であり、その筆頭でもありました。世の趨勢がどうあれ、旧幕藩体制が衰退を辿る中、いずれ故郷に戦火が及ぶ日が遠くないことを肌で感じていた朝日嶽は、居ても立ってもいられず庄内藩酒井家へと馳せ参じたることを選んだのでした。

鳥羽・伏見の戦い『太功記大山崎之図』より

何をも持たない一介の漁夫でしかなかった自分を取り立て、相撲の世界に導いてくれた酒井家、今日の我が身あるは主の徳あればこそ・・。 主君への恩義を殊の外感じていた朝日嶽にとっては、今をおいて恩に報いる時はないと考えたのでしょう。

 

とはいえ、新政府軍によって主たる街道筋は既に抑えられ、庄内に向かう方策はほとんど封じられていました。 日中は物陰に潜み、夜陰に紛れて歩きに歩き 鶴ケ岡の城まで辿り着いたのでした。

既に籠城戦の構えを見せていた城に迎え入れられた朝日嶽は主君(酒井忠篤)に拝謁、その義心を大いに喜ばれ、旗持ちの任を与えられます。 主君の側に付き終始戦場に臨んで戦意の鼓舞にあたる姿は、ひとりの立派な武士のようであったと伝わります。

戊辰戦争においては、後のイメージと違え新政府軍に善戦、各局地戦においては無敗であった庄内藩でしたが、周囲の支城から次第に戦況は悪化、ついに明治の元年9月に降伏・開城に至ります。

戦後、藩主 忠篤は改易に処せられますが、その人望と能力から後に政府の役職に請われ軍務の重職を担い、後年には庄内酒井家の家督を再び継ぎ爵位も授かりました。
こうして時代は旧来の体制に別れを告げ、近代日本の歩みが始まったのです。

東京日本橋風景

戦中を生き抜き 明治2年(1869年)の春場所から大相撲へと復帰した朝日嶽、彼を待っていたのは観衆・民衆からの喝采でした。 義を通すべく、全てを捨てて恩顧の主に馳せ参じた心意気は、江戸っ子気質をいたく刺激したようで、朝日嶽は一躍 時の人として もてはやされたのです。

しかし、民衆をしてなお朝日嶽が愛されたのは、そのような浮かれ立ったような状況の中でも彼が慢心に至ることなく、真面目で律儀な性分に徹したからでしょう。 この後 8年をかけて相撲に邁進し、関脇、そして大関にまで昇進を果たしました。

尚かつ 彼は中々の美男子であったようです。五尺九寸三十貫(身長180cm 体重115kg)という体格は、関取としては細身の方ですが、それも女性人気につながっていたのかもしれません。

“相撲じゃ陣幕、男じゃ綾瀬、ほどのよいのが朝日嶽” * いずれも力士
“相撲もよく取る、男はよいし、女泣かせの朝日嶽”

そんな 相撲甚句が残るほど当時の朝日嶽の人気が伺えますね・・。

力士絵に描かれた朝日獄 中々にハンサム

明治11年(1878年)6月場所(当時)をもって18年の力士人生にけじめをつけ引退、年寄職に就きますが、引退間際のこの年、地方(山形)巡業に出向いて故郷に錦を飾ったのでした。

そして この時、郷土の偉人として迎えた山形県令(知事)の取りなしによって、五条家(相撲司の家元)の認可を得、東北地方限定の “横綱” 認定をも受けています。

22歳で初めてくぐった旧門 “龍田川” の跡を受け継ぎ、親方・年寄職として後進の指導・輩出に尽くしますが、体調を崩し温海温泉で療養中、明治15年、45歳で逝去しました。

明治時代に45歳という享年は、極めて一般的な寿命に沿ったもので、当時としては決して早世ではありませんでしたが、もう少し長生きして故郷を味わい楽しんでほしかった気もしますね。

しかし、このような一途な人生を送ってきた本人的には、何ら思い残すことなき人生の千秋楽だったのかもしれません・・。
人生、何事も誠意をもってコツコツと・・ やはり これに勝るものはないのでしょう・・。

故郷で横綱土俵入りを披露する朝日獄

 

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