誰が眠るのであろうとも祈りは長久に – 青森県


22.08.10 追記:青森県を含む東北地方各県での大雨被害など遭われた方々にお見舞い申し上げます。 一日も早い復旧と安寧を心よりお祈りいたします。

「ゆけ〜!ゆけ〜!♪ 川口浩!! ♪」は、シンガー・ソングライター嘉門達夫(現・嘉門タツオ)による昭和59年のヒットソング。 川口浩 率いる「水曜スペシャル・川口浩探検隊」に事寄せたパロディソングでありました。

こんな歌が生まれるほど「川口浩探検隊」は人気を博し、不定期放送にもかかわらず7年間 計43回を数えるスペシャル番組でもあったのです。

不思議なもの、未知なるもの、そして ちょっと怖いものに対する、人の興味はいつの時代も変わることがありません。 特に昭和中盤の頃から沸き起こった “オカルトブーム” “UFOブーム” など、時に社会現象にまで結び付くほど、人はその心に仄かな恐れとざわめきを求めたのでしょう・・。

昭和が終わり平成・令和と進むにつれて、世の中はますます科学技術が横溢する社会となり、世界のあらゆる部分に光が当たって “闇” が失われていきました。 時代の写し鏡、テレビ番組や映画作品から、オカルティックなものが数を減らしているのも当然なのかもしれませんね。

・・が、しかし、それでも人間は曖昧で不安定なもの、論理や数値だけで人の心を完全に納得させることは出来ないのも また事実なのです・・。

 

昭和の一時期 話題になり、以降、何度かテレビにも取り上げられた 東北の小さな村の話題、憶えておられる方も多いのではないでしょうか・・?。

青森県 十和田市の南、山間の閑静な村に異変が訪れたのは 昭和9年のことだったといいます。 当時の国立公園法に基づき、国内各地に自然と景観の保護のため次々と国立公園の指定がなされていく中、十和田湖を中心とした一帯「十和田八幡平国立公園」の制定にも審査が入っていました。

その現地視察に関わる一端で突如 話題の地となったのが “新郷村 戸来地区” です。 十和利山の中腹に巨石が積まれた古代の祈祷所のようなものが発見され、その後 村内の丘の上で「キリストの墓」が発見されたことから、日本中にその名が知れるところとなりました。

凡そ2000年の昔、パレスチナの地で生まれ宣教活動を成し、後のキリスト教の始祖となった “ナザレのイエス / *イエス・キリスト” 、その生誕が西暦・紀元の元となるほど世界に影響を及ぼした人物・・。(*イエス・キリストはキリスト教視点での呼び名)

エルサレム・ゴルゴダの丘で40年足らずの生涯に幕を閉じ、葬られたはずのイエス・キリストが1万キロも離れた異国の地、それも弥生時代の日本に渡来し、そこで人生を終えたとなれば、世界史にも大きな影響を与えかねない大事件です・・。

新聞記事や 後に制作された幕間の映画などで この話が広まると、多くの人々は驚きを持ってこれを迎えましたが・・。

しかし、これを事実の出来事であると受け止めた人は極めて限られていたようです・・。
誰が聞いても荒唐無稽と思える話であったとともに、そもそも この話を起こした人物が、当時 訝しい古文書をもとに独自の皇国史観を提唱し、世間を騒がせていた新興宗教の祖であったからにほかなりません。

* Wikipedia による「キリストの墓」の記述

提唱者による様々な意味付けがなされ、その虚構に対する反論がなされ、世論はこれを面白おかしく娯楽のネタのように扱い続けます・・。

教祖は戸来の名を渡来神と結びつけ自らの経典に沿うように話題を脚色しました。
山の巨石群は “大石神のピラミッド” と名付けられ古代の遥拝所とされました。
招聘された降霊術師は「キリストの妻の名はユミ子、娘が三人いる」などと宣う始末・・。

キリストの名と新郷村は、我欲と欺瞞に囚われた人々によって利用され、風説の波に巻き込まれたといっても過言ではないでしょう・・。

現代にあっても不測の事態にあっては様々な流言飛語が飛び交い、当事者はたとえその身に落ち度がなくとも大きな風評被害に晒されることが少なくありません。 まして客観的考察の未成熟だった時代ならばなおさらだったのではないでしょうか・・。 実際に戦前・戦中を通して 多くの村民は、この話に関わることを非常に嫌っていたといわれます。

にも関わらず・・、結果的に新郷村は “キリストの墓” を受け入れたようです。

そこに至るまで どのような経緯があったかは知れません。 戦後、日本経済が復興、世が太平となり、昭和中盤期のオカルトブーム到来にまみえて、再び新郷村に脚光が当たる中、 “キリストの墓” は新郷村に “定着” することになったのです。

要因としては、戦後、時が経ち、一般的通念や価値観が大きく変わったこと。既に地方村落において経済衰退や過疎化が現れていたこともあるでしょうか。

墓には十字架が立ち、「キリスト祭」が毎年催されるようになり、資料館「キリストの里伝承館」も建てられました。 年の瀬には墓の周囲から村の其処此処の民家にまでキリストの生誕を祝うようにイルミネーションが輝くそうです。

これら “キリスト” に関わる一連の仕儀が、新郷村の経済の一助になっていることは事実なのでしょう。

ならば、新郷村は経済や村興しのためだけに “キリストの墓” を受け入れたのかというと、どうも それだけではないようです。

“キリストの墓” とされたところは、元々「墓所舘(はかどこだて)」と呼ばれていた墳墓であり、埋葬者不明ながらも村の重要な聖地でもありました。 ピラミッドとされた山の巨石群も含めて、史跡としての考察からいうなら(私見で恐縮ですが・・)、むしろ、アイヌ文化の影響を受けた往古の陸奥(/蝦夷)文明の遺産なのかもしれません。

キリストかどうかにかかわらず、村人たちは古からこれらを守り先人の奉斎を受け継いで来たのです。 村人にとっては、この墓に眠るものがキリストであろうと誰であろうと、大切に供養し祀るべき先人と見做しており、そこに関わる表面的な体裁やしがらみは些末なことと考えているのでしょう。

 

あらゆる物事が合理主義の一途をたどる現代、宗教や信仰に対する意見も様々です。

しかし、宗教そのものは “人” をして成り立ったものだとしても、自然や時の流れ、人間の力では到底及ばぬことに対する “人の想い・願い” 、そこから発する “信仰” は自然発祥の気持ちの現れでしょう。

人は生きるために、目に見えぬものに対して祈りを捧げ続けるのです。
そして それは生きる者同士を結び続ける、大きな力ともなっているのです・・。

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