火の国は蹴破る神によって作られた – 熊本県

九州 熊本県、”火の国” の名を象徴する存在であり、日本のみならず世界でも屈指のカルデラ規模、壮麗な山景を誇る阿蘇山。 現在も活火山であり活動とガスの状態によっては入山規制がかけられる、ある意味 畏れ深き山でもあります。

しかし、その雄大な景観と、全てを包み込んでくれるかのような おおらかな風土によって、この地を訪れる人は跡を絶たず、国内有数の観光地として海外からの訪問客も多く、年間約40万人のインバウンドを誇ります。

熊本・阿蘇を紹介する海外サイト

元々、地場産業は農業を主とする阿蘇地域ではありましたが、時代の変化に伴って第三次産業に従事する人の割合が高くなっています。 ネットワーク社会の発達や多彩な交流の進化とともに、農業と観光事業の融合型イベントの創出、新規子育て世代の流入など、新たな地域経済の兆しを見ている状態といったところでしょうか・・。

 

阿蘇山、東西約18km、南北約24km、総面積面積380(平方)kmと、広大な領域を持つ活火山地域、約40万年前にその起こりを持ち、27~9万年前の莫大な噴火活動によって現在のカルデラの基礎が出来上がったといいます。

特に9万年前の噴火は途方も無い規模、”破局噴火” と呼ばれるもので、その火砕流は熊本県全域のみならず、九州中域部を完全に覆い一部は山口県にまで到達、また 噴出した火山灰は南西諸島や朝鮮半島はおろか、対局地である北海道にまで及んだそうです。

いくばくかの自然災害で揺れる現代人の感覚から見れば、壊滅的な災害であるとともに人智を超えた自然活動でもあるわけですが、それもまた地球的規模の視点から見れば、ちょっとした地殻の “咳払い” であったのかもしれませんね・・。

ともあれ、これらの活動の後に残った形跡が現在の阿蘇の中核を成すものであり、ここ数千年の人間社会にあって “火の国” 足らしめるシンボルでもあるのです。

 

さて この阿蘇カルデラの西側、現在の立野地域に大きな峡谷が見えるのが分かりますでしょうか? 現在では熊本市内から阿蘇へのアクセスに欠かせない経路でもあります・・。 実はこれ 約7万3千年前にこの部分のカルデラが決壊を起こし崩れ去った形跡です。

崩落しただけならば、多少、地位が下がるだけですが、この部分は綺麗さっぱり無くなり “谷” となっていますね・・。 つまりここを膨大な何かが通り過ぎて行ったということになります。 膨大な何かとは何か・・?

答えは “水” 、山麓の崩壊を伴いながら膨大な量の水が溢れ出した跡、約7万3千年前まで阿蘇山は満々と水を湛える “大カルデラ湖” でもあったのです。 阿蘇の西側、言ってみれば現在の熊本市の辺りは、当時の大洪水の通路跡地に出来た平野とも言えそう。

阿蘇カルデラの北側遺跡では弥生時代のものと思われる “櫂(舟を漕ぐオール)” の埋蔵物が見つかっており、この辺りに比較的最近まで相応の湖が残っていたことを示しています。(最近と言っても7千年位昔の話ですけどね・・w)

また、その名残りというわけではありませんが、当時(10万年位前w)の様子の単著ともいえる、高地に雨水が溜まって池を成す様子が現在でも見られるのが 内輪山西部の「草千里ヶ浜」、標高1130mという高地に在りながら、その名が表すとおり見晴らす草原と鏡のごとく映える池のコンビネーションは必見のスポットですね。

 

この壮大な自然現象に関わる神話が残っていますので少しご案内しましょう・・。

阿蘇の地には、健磐龍命(たけいわたつのみこと)という古代の神格的人物が深く関わっています。 別名 “阿蘇大明神” ともされる健磐龍命は、初代天皇 “神武天皇” の孫(もしくは子孫)にあたる方で、天皇により九州地方の鎮護を命ぜられます。

命に従い、まず神武天皇の故郷である “宮崎” に入った健磐龍命は、そこで天皇の御霊を祀ったそうで、それが現在の「宮崎神宮」の基となったのだとか。

その後 “延岡” の地に上がり、五ヶ瀬川(ごかせがわ)を遡って天孫降臨の地 “高千穂” に参ります。 さらに阿蘇山の南方 益城(ますき)の里で “幣立神社(へいたてじんじゃ)” を創始し、阿蘇の地に入ったのだそうです。

 

健磐龍命が入郷した頃は、まだ阿蘇山に湖の水が沢山残っていて、このままでは田畑が作れないため、水をどこかへ抜かなければなりません。 よって健磐龍命は山の一部を その足で蹴破って水を出してしまおうと考えました。

しかし、一度目は山が二重の岳となっているため失敗し、二度目のチャレンジとばかりに岳の隙間を狙って蹴り入れたならば、見事に外側の岳を蹴破り阿蘇の水は捌かれたそうです。

只、あまりに勢いよく蹴りすぎたせいでしょうか? 蹴った拍子に転んで思い切り尻もちをついてしまったようで・・、よほど痛かったのでしょう「痛い!これでは立テヌ!」と叫んだそうです。 それで この辺りを後に “立野(タテノ)” と呼ぶようになったのだとか・・。

峡谷から10km程離れた 熊本市内には、”小山” と “戸島” という小高い丘があるのですが、これは健磐龍命が岳を蹴り飛ばした時の破片なのだとか・・。 神話の中でのお話なのですが、大山津波 + 大洪水時の残骸である可能性も少なくありません・・。

 

壮大なスケールの割に全体的には牧歌的な展開、いかにも古代日本神話の神様といった感じで、ある意味微笑ましいお話ですね。

“阿蘇大明神” である健磐龍命には、これ以外にも多くの伝承が残されており、例えば内輪山 北西部に「米塚(こめづか)」という、鉢を伏せたような美しい姿形で知られる代表的な “スコリア丘(ミニ火山)” がありますが・・、

健磐龍命が切り開き、田を整えた阿蘇の地で収穫された米を、この場所に集めて積み上げ、その山の頂きをすくって民に分け与えた・・という由来から名付けられたものなのだそうです。 また “鬼八” という鬼を使役していたというユニークな伝承も残っています。

“虚実混交” と言ってしまえば それまでですが、古代の神話は茫洋とした世界観の中に、いかに事実と想像を巧みに融合しながら、数千、数万の過去の事跡を現代に伝えているかが分かります。

阿蘇山を含め、そういった伝承の残る地にお出かけの際は、ぜひとも これらの伝承の切れ端を思い出してみてください。きっと その地を訪れる楽しみが2割増し3割増しに輝くことでしょう・・。

 

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