日本で一番小さな村はなぜ輝いたのか(後)- 富山県

前回記事の末尾で貼りました画像、舟橋村の風景の一片です。


地方の中心地から少し離れた場所、やや田舎の風景としては極ありふれた風情、どこの県や市でも見られる郊外の佇まい。田園を貫くように敷設された真新しい道路が新興に向かう地域であろうことを物語っていますね。

前編でもお伝えしたように、舟橋村は昭和の末期から過疎化への問題に取り掛かったそうです。 隣接する富山市のベッドタウンとしての機能を築き上げ、人口減少に歯止めをかけるという難関を越え、のみならず若手人口の増加という成果を手に入れてきました。

しかし、“市街化調整区域” の足枷を外し新興住宅を増やすだけで、人口の増加と平均年齢7歳以上の若年化を果たすことは 中々に難しいでしょう。同じような取り組みは、他の多くの地方も尽力はしてきたものの、結果には結びついていない所が殆どだからです・・。

では舟橋村には他には無い何かがあるのでしょうか。

 

話は少し ずれますが、この舟橋村、昭和40年代から40年余りに渡って推し進められ、平成中期には大規模な統廃合が行われた “全国市町村の合併” の波にも飲まれることなく、未だに「村」の自立性を堅固しています。

地域経済そして地方交付税の縮小の中、行政や財政の好転・安定化を望んで合併に准ずる自治体が多い中、大規模な企業や発電所などを持たずして自立を維持する異例な地所ともいえるでしょうか。(明治22年に15ヶ村が合併、舟橋村発足以来)

一聴、時代遅れとも取られかねない「村」の名を堅持しながら、その運営を守り続け自立性を保つことは容易なことではないと思うのですが、そもそも舟橋村、否、富山の地は元来、独立心、自立性が歴史的に高い土地柄であったようです。

 

江戸時代の富山県、旧国名は “越中国” 、その多くの領分を占める富山藩はれっきとした一藩でありましたが、同時にお隣 加賀藩(石川県)の支藩(本藩の分家が治める領藩)という立場でもありました。

独立した藩であり、本藩の危急時(本藩藩主の代理政務や後見など)には支援に回るなど、重要な役目をも担っていましたが・・、言い換えれば都合よく使われることも少なくなく、そのしわ寄せを背負わされるのは、いつの日も領民であったことは想像に難くありません。

江戸末期、北陸地方を襲った安政の大地震が起こった時も、加賀藩は復興施策の一つとして同地の村組みを改変させ強制的な移住措置をとりましたが、その一端は財政増加のための、新田開発であったとも言われ、また住民に対する補償も足るものではありませんでした。

明治時代が到来したにも関わらず、折から起こった飢饉に対してこれを放置、挙げ句 租税の徴収を強行したため、ついに「ばんどり騒動」と歴史に名を残す一揆の勃発につながってしまいました。 加賀藩 影響下からの独立、そして自立は富山領民の悲願でもあったわけですね。

 

富山の県民性は男女問わず 非常に堅実で勤勉であるといわれます。 ”富山の薬売り” は、富山藩2代藩主 前田正甫が製薬に興味を持ち、城下に薬業が根付いたことに端を発するのだそうですが、全国各地にまで行商に出掛け藩財政を支えるとともに、今日にまで続く地元の一大産業として育ててきた勤勉さは、その証左ともいえるでしょう。

また、富山県は早くから工業の勃興に力を入れ発展してきた町でもあり、それも先端の技術をいち早く取り入れる、日本海側屈指のハイテク工業県でもあるのです。前編でご紹介した「ファインネクス株式会社」が、日本一小さな村に興る下地があったわけですね。

舟橋村はそういった富山の歴史や風土、忍耐や進歩性を色濃く残した土地柄であったのかもしれません。

一般的に自立性の高い村に他地域からの人口流入が増えた場合、何かと軋轢の種に結びつきやすいものです。 しかし、折からの歴史の中、他地域からの強制移住も受け入れながら新しい自立に結びつけていった文化、それは全く新しい未来の創造にもつながるのです。

 

 

舟橋村が もうひとつ、特に力を入れていることに、子供の育成に注力していることが上げられます。

村の基本構想のひとつに “子どもを産み育てやすいまちづくり” を挙げており、その中で “母子保健の充実など子育て環境の充実、地域ぐるみで子どもを育てるしくみづくり、また、独自性のある教育実施や学校教育の充実を図るなど、子どもを産み育てやすいまちづくりを目指す” ことなどが掲げられています。

村ホームページには独自に “こどもの救急ホームページ” も設けられており、幼少児の健康と安全に対する指標と対策が確立されています。

村行政と民間企業合同によって、こどもの育成と文化発展のため『園むすびプロジェクト』も推進されており、村の子どもだけでなく他地域からの来訪者との触れ合いや、協調を育む施策も考えられているようで、ここにも長い歴史の力が反映されているようで感心されますね。

画像 © 舟橋村園むすびプロジェクト より

社会に若い力が必要不可欠なことは自明の理でありましょう。如何に穏やかであっても老人ばかりの社会が、いずれ傾いてゆくことは必至の事実なのです。

舟橋村が 過疎・高齢化の打開に向けて動き出し、その成果を見出したのは決して富山市の近隣にあったからだけではなく、ましてや運が良かったからではありません。

出来得る限り早い時点で問題を明確にし、未来に焦点を当てた対策を実効的に、そして粘り強く進める。 自然と開発、保守と革新のバランスを巧みにとりながら、そして何より在来・新興両方の村民、また来訪者に至るまで、その幸せのあり方を問い続けてゆく。

そういった基本スタンスが人口増加率・平均年齢の若年化という結果につながったと思うのですが如何でしょうか?

子は社会の宝、その子どもが減少の一途を辿る状況の中で私達が出来ること、社会が出来ることを考え進めててゆく・・そういった時期は既に早くに過ぎてしまっているのかもしれませんが、今再び考え直してみる・・その必要があると思うのです・・。

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