日本で一番小さな村はなぜ輝いたのか(前)- 富山県

この一枚の写真、一体何の画像か分かりますか?
何やら剣山のような趣・・、針のようなものがびっしり並んでいますね。一本一本の太さが約300μm(0.3mm)程しかない極細の銅製ピン、並ぶ数は数百本単位です・・。

一般の方があまり目にすることのない・・それでいて何かと関わりを持っている・・。
名をPGAピン、今あなたがこのページを見るのに使っておられるのが、スマホかノートパソコン、はたまたデスクトップパソコンかは分かりませんが、そのコンピューターの内部で、一番重要な “CPU / 中央演算処理装置”(いわゆるコンピューターの頭脳部分)の “足” の写真なのです。

“足” 、つまりCPU内部で想像も出来ないようなスピードで処理された命令信号が、この “ピン=接続部分” を通ってコンピューターの各部署に送られ、あらゆるアプリケーションソフトが動作するのです。パソコンの中では目立たないながらも非常に重要な構成部位でもあるわけですね・・。

このPGAピン製造をはじめとした金属加工の会社が富山県の舟橋村というところにあります。 極小のものから自動車部品に至るまで、様々な圧造・複合加工を行う特殊用途部品の製造メーカーですが、特にこのPGAピンに関しては月産100億本以上の供給に達し、世界シェアNo.1を達成した企業なのだそうです。

© ファインネクス株式会社 サイトより

会社名は『ファインネクス株式会社』、富山県の誇る優良企業の一社なのですが、この会社のキャッチフレーズが「日本一小さな村で生まれた、世界一の圧造加工、複合加工メーカー」、そう、この会社が立っている場所は “日本で面積が最小の自治体” 、村域面積がわずか “3.47平方キロメートル” の村なのだそうです。

“3.47平方キロメートル” ・・、ピンときませんが、羽田空港(東京国際空港)の敷地面積がおよそ15平方キロメートルなので、それの1/3以下の広さということになりますね。
空港よりも小さな村・・、Wikipediaのテキストを借りますと、日本で最も大きな自治体、岐阜県高山市の約1/627の比較面積となるのだとか・・。

 

随分とコンパクトサイズの村なのですが、この舟橋村、地方都市の小さな村というイメージにそぐわず、人口増加率が県内で最も高く、それどころか2000年から2005年にかけては日本一でもあったそうです。

小児人口の割合も高く村内平均年齢も2013年時点で40.6歳ととんでもない若さ !? 東京23区の平均年齢が44.27歳、同じく大阪市 45.8歳、私の住んでいる和歌山市(県庁所在地)が47.59歳 と、都会や他の地方都市との比較で見ても突出していますね・・。

過疎化が進んで止まない多くの地方自治体からは 羨望の眼差しを受けそうな状況ですが、これは一体どういった理由によるものなのでしょうか。

© Wikipediaより流用

ひとつには舟橋村の立地が、富山県の県庁所在地であり中核都市でもある富山市に隣接した場所であり、富山市に務める人々のベッドタウンとして発展してきたという経緯もあるようです。

しかし、富山市そのものの平均年齢が47.09歳と、一般地方都市と同じような状況であることを考えると、舟橋村で7歳以上の若年化を果たしているということは、この村が若手人口の導入と育成を積極的に果たし 成功してきた結果ともいえるでしょう。

・・で、そんな舟橋村の景観ですが、グーグルマップの画像からも分かるように、村内の大半を田園で占めるような、言ってみれば、どこの地方にも見られる田舎の佇まい。そこかしこに新興の住宅が見られるといった感じでしょうか・・。

人口増加が国内屈指であるにもかかわらず、自然に溢れた景観は保たれたままです。
これは、村の開発と人口導入に早い段階からの周到な見識があったことを意味します。

 

そもそも舟橋村も昭和50年代には明確な人口減少と高齢化が見て取れていたのだそうです。このことが意味する村の将来を案じた村行政は、いち早く事態の好転を目指して動き出しました。 それは村域開発の妨げとなる “市街化調整区域” からの指定解除。

“市街化調整区域” は 国や県によって定められた “都市計画法” に基づく法指定であり、都市部やその周辺地域における 無秩序な開発を抑制するためのものですが、同時にその弊害もあって、調整区域指定のために大半の開発が認められず、新しい世代を呼び込むための住宅団地や企業誘致に難を催します。

昭和56年に村長に就任した松田秀雄氏は、この “市街化調整区域” 指定撤廃に向けて動き出し、村の現状を訴え直接国や県に対し粘り強く協議を重ねて、陳情開始から6年、ついに指定解除を勝ち取ったのだそうです。

こうして、新しい村の未来に向けて動き出す端緒を開いたわけですが、ここで、眼を見張るべきは、指定解除だからといって無謀に開発を始めるのではなく、あくまでも村人全員が幸せに暮らせる環境を目指した上で進めたところにあるのでしょう。

 

舟橋村に限らず、昭和の後期には主に地方に属する日本各地で過疎化や住民の少子高齢化が浮き彫りとなりつつありました。 戦後のベビーブーム、高度経済成長時代を越え日本は老化の道を辿り始めていたのです。 舟橋村の成功はそれに対していち早く実行的な行動を起こしたことが 実を結ぶことにつながったのではないかと思います。

平成元年から25年をかけて535戸分の宅地が造成され、若手世帯の導入にも成功しました。とりもなおさず、人口減少にだけは歯止めが掛かったのです。 しかし、それだけでは一時的な処置と結果に他なりません。

舟橋村が輝くにはもうひとつポイントがあったのです・・。 以降、後編へ・・

舟橋村 風景

 

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