御柱祭 諏訪大社の祭事の中でも最も重きを成す大祭としてメディアなどでもよく取り上げられる、有名かつ勇壮な祭りとしてご存知の方も多いでしょう。
数え年7年ごとに行われ八ヶ岳や八島から切り出された重さ約10トン 計16本もの大木を、各数千人の曳き手で急峻な崖、荒れ地、川なども厭わず各社まで運ぶ神事で、数十万人に登る氏子と観客をも動員します。
御柱の曳行のみでなく その四柱の建て方にも厳格な決まりがあり、宝殿などの造営も含めて極めて特徴ある祭事にも関わらず、実はこの神事、平安時代以前から行われていたであろう事以外 祭りそのものの意義も目的も いまだ判明していません。
おそらくは、先史における狩猟や農耕に関わる祈願を元にしているのではないかと推測されてはいますが明確にはされていないのです。
前回までの記事で、諏訪の信仰縁起として「甲賀三郎伝承」をご紹介し、また諏訪大社の祭神が 建御名方神 (たけみなかたのかみ)と 八坂刀売神 (やさかとめのかみ)であることにも触れましたが、実は諏訪における信仰はこれらの神々が最初ではないようです。
諏訪を中心とする中部・関東地域には「ミシャグジ様」と呼ばれる精霊・自然信仰があり、それは主に”石” もしくは”木” またはその両方に宿る神とも思われ、古代の狩猟・農耕また その領域に深く関わっていたと考えられています。
同時に神聖なる諏訪湖を中心に発展した文化であり、当然ながらそこには”蛇” ”龍” につながる ”水神信仰” も萌芽します。
諏訪における原初の信仰とはこうした”石木” ”水” を依代とした自然信仰ではなかったのでしょうか。
時代が下ると「洩矢神(もれやがみ)」の名が出てきます。自然信仰であった諏訪の地において、もしかすると初めて明確な人(もしくは勢力)による支配と崇拝体系だったのかもしれません。
諏訪大社は一個の大きな御社ではなく、上社二社、下社二社の計四社からなる奇特な姿をしていますが、勤め上げる神職の役名も一般の神社と異なり、筆頭を大祝(明治期までは現人神とされていた)、その補佐を神長官としています。
神長官は大祝に次ぐ次席であり大職ですが有史以来 長く”守矢氏” が務めました。
この”守矢氏” が ”洩矢神” の末裔とされており 一説には古代豪族”物部守屋” との関連が指摘されています。そして、この ”洩矢神=守矢氏” が、後に続く”建御名方神” との新たな関わりを生んでいきます。
ようやく 諏訪大社 本来の”建御名方神” の名が登場しましたね・・
神代、出雲の国譲りで建御雷神(たけみかづちのかみ)に破れ 諏訪の地に逃げ込んだとされる神であり、そのように紹介されることが多いのですが、当然のように諏訪においては異説をもって記されており、諏訪に来訪・平定した神とされています。
つまり、その時 それまで現地の統率者であった ”洩矢神=守矢氏” との闘争もしくは和睦をもって新たな諏訪の神となったと考えられますね。
日本人の興味深い性向として、敵対する者を制圧した時、相手側が恭順の意思を示した時には根絶やしにしてしまわず、ある程度相手側の文化や制度を残しておくということがあるのですが、この諏訪の時変においても同じ動向が作用したのか 正に闘争から和睦となり、後に続く主従関係が構築されたと見て良いのではないでしょうか。
因みに、そもそも”建御名方神” の神格と国譲りにおける”負け戦” 的な神話は「古事記」においてその記載があるとは言え、他の文献では異伝も多く研究の余地を残すところです。
ともあれ新たな神として迎えられた”建御名方神” は ”諏訪氏” として「大祝(現人神)」となり、”守矢氏” は「神長官」として ともに諏訪の聖地を守り人々を統率することとなったようです。
”守矢氏” の始祖が ”物部氏” ではないかと言われているように、”諏訪氏” の起こりは奈良県桜井を拠とする”大神氏” もしくは科野国造(古代信濃国の管理者)であった”金刺部氏” ではないかと言われています。
古代から続く「ミシャグジ」や「水神」信仰の様相も深く静かに堅持しながら 諏訪は中部~関東の聖域となり、後に導入されてゆく仏教思想とも相容れながら発展を続け、それはやがて 鎌倉幕府との関係も深めてゆき、自らの身をもって神とする神秘性と 強大な権力基盤の確立で後の戦国時代へと続く一大勢力圏を築いてゆくことになりますが・・
建武2年(1335年)鎌倉幕府の後、足利氏によって暫定的に立てられた ”建武政権” は未だ多くの反感者を抱え、ついには旧幕府方 北条時行 をもって 中先代の乱(なかせんだいのらん)の勃発に至ります。 往時より鎌倉幕府と密接な関係にあった”諏訪氏” もこの倒幕に中心的な役割で加担しますが、一時的な政権奪還を果たすものの 結果的に旧勢力は敗退、完全なる鎌倉幕府滅亡へとつながります。
このことは単に政権の変化に留まらず、それまで”軍神” と崇められてきた”諏訪氏” にとってその信望と求心力を大きく失うこととなってしまったのです。
時代の移行と”軍神” の黄昏は 諏訪の信仰にも大きな影響を与え、多くの氏子衆はそれまで語り継がれてきた”諏訪氏” による由緒ではなく、より古来の自然崇拝により近い縁起譚を求めました。
”地の力” ”水の力” それに宿る神による、古く そして 新しい縁起神話が求められ生み出され、その最たるものが前記事にてご紹介した「甲賀三郎伝承」だったのです。
「甲賀三郎伝承」は地元の民にも新生の縁起として受け入れられ、中先代の乱の後、南北朝時代の説話体系「神道集」に載るほど定着化し、その後も絶えることなく今日に至るまで語り継がれていますが、一方、諏訪大社における”正式” な縁起は現代においても尚 ”建御名方神” による”諏訪氏縁起” を基としています。
八百万といわれる日本の神々とそれを祀る社、全国総数 約8万8,000 といわれる神社の中で元々の祭神や縁起が判明していない神社は思いの外多く有ります。
しかし、”御柱祭” のような大きな大祭を抱え日本を代表する一社でありながら、複雑で難解で、そして 魅惑的な謎を数多に内包する「諏訪大社」の魅力は今日もこれからも衰えることが無いのでしょう。