諏訪~甲賀三郎伝承をもとに(弐)- 長野県

前回ご紹介しました「甲賀三郎」のお話は民間における”民話” でしたが、神秘の社 諏訪大社 の縁起により近い伝承とは次のようなものとなります。
( 前回との重複と長文を避けるため要約となります)

– – –  諏訪縁起  – – –

長男 太郎諏致(よりむね)、次男 次郎諏任(よりただ)そして三男 三郎諏方(よりかた)という三兄弟が居た。

三人はともに東国一帯を統治する領主であったが、とりわけ三男 三郎諏方 が筆頭であり、人望もあり、また 大和国春日の国司の娘 春日姫 を娶っていた。

ある日、春日姫が ふいに流れてきた絵草紙を手にとったところ瞬く間に絵の中に吸い込まれてしまい、それきり行方不明となってしまった。

三兄弟は姫の行方を求めて山々を巡りついに信濃国 蓼科山の人穴に辿り着く。

綱にすがり大穴の底に降りた三郎は 地底世界にあった鬼の城で姫を救出すると、綱に付けたかごで先ずは姫を引き上げてもらう。

ところが、直前、姫が鬼の城に忘れてきたという鏡をとりに戻っている間に、綱は切られ三郎は一人取り残され兄達に裏切られたことを知る。

やむを得ず地底世界を彷徨うことになった三郎はいつしか記憶もおぼろげになりながら やがて 維縵国(ゆいまんこく)という仙境を見つけ、その国の王女 維縵姫 と夫婦となる。

一方、二人兄の妬みと横恋慕によって囚われの身となった春日姫であったが、兄達の意に従おうとしなかったため一時は亡き者にされそうになるも、それを逃れ身を隠す。

13年余の時が過ぎたある夜、一枚の絵草紙によって過去を思い出した三郎は地上への帰還を決意し、維縵姫とその父王 好美翁 の理解と援助をとりつけ地上へと戻る。

長い時をかけ地上に戻った三郎であったが自らが龍へ化身していることを知り嘆くが、地上の権現の力をもって人間の姿へと返り咲く。

春日姫との再会を果たした三郎は二人して 西方の大陸 平城国へと渡りそこで神道の奥義を会得し、再び日本へと戻る。

帰国し、信濃国 岡屋里に立った二人は、三郎が諏訪大明神(諏訪大社上社)春日姫は下宮妃明神(諏訪大社下社)として示現し今日に伝えられる。

また、地下世界 維縵国 より三郎を追って地上に顕現した維縵姫は、春日姫との和睦をもって後に 浅間大明神 となった。

諏訪の地名は三郎諏方(よりかた)の諏訪に因んだものである。

 

– – – – – – – – –

以上が、諏訪の縁起により近い形の伝承となります。

大筋では前回の民話と似たようなものですが、諏訪大社に坐す神性をより正確に説明する形、つまり、諏訪大社 上社に祀られる主祭神は龍蛇と化した三郎であり、下社の主祭神がその妻 春日姫であるというのです。

ところで、ここまで見てきて幾つかの疑問が残りますね。
とりわけ大きな疑問が次の2点ではないでしょうか

・ 信州のお話に”甲賀” 性の主人公とはどういうことなのか?

・ そもそも 諏訪大社の祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)ではなかったのか?

最初の疑問、甲賀性ですが、ご存知のように”甲賀” は現在の滋賀県 近江国で見られる地名・姓名です。(因みにコウガ ではなくコウカ)
”甲賀忍者” などでもよく知られていますね。

ドラマや映画で演出される 出で立ちや忍法合戦は絵物語だとしても、甲賀衆は近江を本拠として実在していた人たちで、間諜(いわゆるスパイ活動)や 手妻(薬学を利用した奇法)に長けていたと言われています。(現在でも甲賀市周辺に製薬会社が多いのはその名残だとも・・)

甲賀地方の一豪族集団であった彼らが、いつの頃から”忍” を生業としていたのか詳らかでありませんが、室町時代にはその萌芽が有り 戦国の世をとおして活動していたようで、少なくとも江戸時代には明確な文献が残っているようです。

古には”淡海”(おうみ)とも呼ばれた彼の地の統治には”春日氏” の関わりもあったようで話の中の”春日姫” とリンクします。

甲賀三郎諏訪(よりかた)は別名 三郎兼家(かねいえ)としても伝承に残っており諏訪縁起とは異なる八頭鹿退治の話などで甲賀地方の括りを超えた活躍と知名度を持ち、また、三郎が忍軍としての甲賀の祖であるとされることもあり、人伝の話とはいやが上にもロマンの流れを生んでゆくようですね。

諏訪縁起の詳細においては「安寧天皇の5世孫の甲賀権守諏胤(よりたね)が惣追捕使として東国三十三ヶ国を統治した」とあり、その後嗣の三兄弟が父の領地を引き継いだ事になっています。

安寧天皇 自身、神代の人でもあり5~6世孫の話とは言え この記述の信憑性は微妙ですが、古代、科野(しなぬ=信濃)と呼ばれていた地方で 組織力も高く器量に優れた甲賀の人々が東国において何らかの影響を与えていた可能性も否定出来ず、不確かながら このあたりの事象が後の諏訪の神話へ反映されたのかもしれませんね。

 

もうひとつの疑問、諏訪大社の御祭神が 建御名方神(たけみなかたのかみ)であることは周知の事実であり国史にも記されたものですが、一方 記紀における 建御名方神 の神格、そして諏訪における着坐には疑問点も残っており、今回の甲賀三郎伝承と相まってさらに混迷をも漂わせています。

時代の変遷に伴い揺れ動く諏訪の神格、諏訪大社における明神、信仰の礎とは何なのか、次回、諏訪の歴史と信仰の経緯の紐解きに触れてみたいと思います。

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