各地には時折、俄には信じ難いような伝説が残っていることがあり、中でも 青森県に残る “イエス・キリストの墓” であるとか、以前 当サイトでもご案内した茨城県に流れ着いた “天竺の姫君” のように、海を隔てた遠い異国からの “貴人到来伝説” など、時間のみか空間まで超越した物語に胸が踊らされますね。
その多くは民話伝承の域を出ないものの、単に不思議なだけでなく、何故 “その貴人に結びついたのか?” を考えさせてくれる、歴史的な事象に思索が及ぶような面白さを持っています。
宮崎県延岡市の沿岸部、北浦町(阿蘇地区)の沖合い2km*に浮かぶ「島浦島 / 島野浦島」(しまうらとう)には、江戸時代後期より伝わる “かなり珍しい貴人” の伝承が残っています。
そして、この伝承の特徴的なところは、当時の延岡藩の公式文書にも その記録が残されているということでしょうか・・。
* 23.08.18 ご指摘をいただき修正しました。
島の周囲 15.5km、上空から見ると少しウミウシかヒトデのようにも見える形の島影、要するに島の各所に大小の入江を持つ島浦島は、古来より漁業の中継地として栄え、近年では絶好の釣り場としても人気のスポットです。
そんな島浦島の南端、海岸線からわずかに離れた「沖の小島」にひっそりと佇む一本の白い十字架があります。釣り人を除いてこの島に上がる人は少なく、見ようによっては寂しく殺風景な佇まいともとれますが、この墓碑には次のような伝承が残っているのです。
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江戸時代末期、島野浦(延岡市側の漁港)の漁師が一日の漁を終え、港に帰ろうと船を進めていた時、波間に漂う一本の木箱を見つけた。
いささか大きな木箱で目に留まり、何やら無視する風でもなかったため船を近づけ船上に引き上げたそうで・・、道具箱にあったノミで恐る恐る箱を割ってみると、出てきたのは人の亡骸であった。
驚きおののく漁師たちであったが、その亡骸は異様な風采をなしており、三つ編みにされた金色の頭髪、見たこともない衣装、そして金銀宝石に飾られた装束であった。
どうしたものかと悩んだが 亡骸はケガレでもあり、このまま港へと帰るわけにもいかず、帰港途中にある島浦島の離れ小島に一旦置いておくことにした。
小島に箱を残し、港に帰った漁師たちの話しを聞いた村では騒ぎとなり、村役人に届けると同時に、船と漁師たちのケガレを祓う儀式を為すと、日を置いて再び小島へ出掛け弔うと改めて柩を埋葬し直したそうだ。
柩の主は誰だったのだろう・・? その風采や財宝から遠い異国の高貴な人柄のように思える。
丁度その頃、遥かに遠い南米メキシコの国において戦乱があったため、亡くなった女王を納めた柩が密かに流され、延々と太平洋を渡り当地に流れ着いたのだ・・。 今も女王は故郷を想いながら、島の片隅で静かに眠っている・・。
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と、いうのが島野浦と島浦島に残る伝承です。
メキシコ女王という かなり意表を突いた人選の展開ではありますが、実際問題、この事件は話しの中にもあるように、郡役所による検分も受けており、それによりますと この事件があったのが 弘化3年(1846年)のこと。
一方、その頃の南米メキシコの状態というと、国家独立と対外紛争の最中であり戦乱が続いていたのは事実で、1846年には “米墨戦争” に敗戦もしているため、話としての整合性もゼロではないのですが・・。
1821〜1823年迄のわずかな期間存在した “メキシコ帝国” における君主は男性であり、仮にその家系の者が40年代に何らかの事情で流されたとしても、柩の形で太平洋を渡って来たとは考え難いのが実情ではないでしょうか。
郡役人によって残された文書の一部を見てみましょう。
” 弘化3年7月24日 島野浦の漁師たちが島浦島の約四里沖で操業中、波間に浮かぶ長さ一間程の木箱を見つけ引き上げた。 ノミを用いて四尺程の穴を開け、中を検めると綿と遺骸の一部のようなものが出てきた。”
” 当初、再び海に流すことも考えたが 祟りおこることを恐れ、一旦、日井之小島に柩を置き、港に戻り船清めを済ませた後、翌々日 三人の漁師を日井之小島に遣わせて弔いを為した ”
” 柩の中身は頭蓋骨を含む人骨、三ツに編まれた長い頭髪、七島ゴザの一部、靴一足、足袋と思しき物、綿、青染めの切れ端、真鍮ボタン二個 ”
(以上、意訳)
記帳から見るに、確かに伝承の元となった事件はあったものの、金髪であるとか宝物が梱葬されていたとかの記述は見受けられず、七島ゴザは豊後国(大分県)の “七島藺(しちとうい)” に関わるものと思われるため、メキシコ女王につながる要素はありません。
当時、メキシコにおける状況が日本に詳細に伝わっていたとは考え難く、”宝物に包まれたメキシコ女王の柩” というのは、おそらく時を空けて後代に付された伝承かと思われますが、この話が広まるにつれて宝を彫り出そうとする輩もあったそうで、何とも虚しさを感じますね・・。
ペリーが浦賀に来航したのが この7年後(1853年)、しかし、ヨーロッパ諸国に出遅れたものの、1800年前後からアメリカ船も頻繁に日本近海に姿を現していました。
上述の “米墨戦争” を契機として太平洋岸に開けたアメリカ合衆国は、急激にアジア方面への勢力拡大を図っていたのです。
ペリー来航以降、日本が急峻に時代の変革を経験していったように、この『島浦島 メキシコ女王碑伝説』も、そういった目まぐるしく騒がしげな時代の風を受けて作られていった伝説なのかもしれません。
只、文書に記された 三ツ編みの長髪、靴履き、真鍮ボタンというものが本当であれば、異国、もしくはそれに準ずる人物であったとも思われ、この伝承にミステリーな色彩が失われていないのも また事実なのです・・。
現在の島浦島は800人程の島民を擁し、漁業で栄える自治体となっています。
11月には島民挙げての “秋季大祭” も盛大に行われ、観光で訪れる人も少なくないとか。
島内にそびえる 遠見場山(とんばやま・186m)からの眺望をはじめ、風光明媚な景観から “島の宝100景” にも選出され、近年では島内観光やサンゴウォッチングなどのアクティビティにも力を入れている様子。
浦城港から高速艇で10分、カーフェリーで20分で渡れる手軽さも含めて、宮崎観光の穴場としても良いかもしれません。 不思議の伝承が眠り 自然美にも優れた島、機会があればぜひ訪れてみては如何でしょうか。
* 本日は、九州を中心とした自然散策&写真ブログ「延岡の山歩人K」yamakawa_trek 様 の画像供出協力を頂き記事を上げさせて頂きました。
初めまして、こちらの(島浦町の沖合い5キロ)は、北浦町(正確には阿蘇地区)の沖合い2キロではないでしょうか?ちなみに1846年の米墨戦争の1年前に(当時の国王に12人若しくは13人いたとされる子供の忘れ形見が)密かに王室の証の真鍮のボタンと共に国外に逃れたと考えています。奇しくもこの地区で採れる深海魚の『メヒカリ』はMexcali(メキシコの都市名のひとつでメヒカリと発音します) 単なる偶然なのか?私は仮説として物語を創ってみました。
森徹夫 様
こんにちは、コメント、そして大切なご指摘まことに有難うございました。
確認しましたところ確かに島浦町は島浦島そのものですから、”北浦町の”の間違いですね。
距離数も概ねご指摘のとおりだと思います。 畏み謹んで訂正させて頂きます。m(_ _)m
ポストの前に確認はしているつもりなのですが、思い込みや誤認によるものは中々ピックアップできません。
以後、さらに気をつけて参りたいと思います。
当時のメキシコ国王とその子息・・という話は、この記事を書いていた当時の調査途中で見かけたような朧気な記憶がありますが、もしかすると森さんのブログだったのでしょうか? とても興味深いお話なので何処かで拝見したいと思います。
今後とも宜しくお願い申し上げます。
ご丁寧な返信と訂正ありがとうございます。北浦の大なまずの話はFBで投稿したことは有りましたが、Twitter(X)には有りませんね。
もしよろしければこの記事と合わせてFBに載せても構わないでしょうか?(一応時代背景と可能性は多少矛盾(指摘されているゴザ等)は有ります)