侠気の鑑か老人の愚痴か 堅魚男が残したもの

 

世界で最も硬い食べ物と言われる「鰹節(かつおぶし)」

この鰹節にも旬があるそうで、4月5月に獲れたカツオ ”初鰹” を加工して作られる ”春節” と呼ばれる鰹節の方が、古来より美味であるとされてきたそうです。

夏場以降、秋にかけて獲れる ”戻り鰹” は身が大きく脂が乗っているので、刺し身やタタキとしては美味しいのですが、その脂分が鰹節加工において燻製時に脂焼けをおこす元になったり、加工後も削り難いものになってしまったりと、あまり良い結果を出せないのだとか。

とは申せ、これは近海でのみ漁業を行ってきた昔の話で、近代にあって世界中の海から良質なカツオを調達できる現在では、品質もほとんど一定に保たれているのだそうです。

 

食生活の変化から 近年では若い世代で消費量の低下もみられる鰹節ですが、日本独自・伝統の食品であるというだけでなく、そこに含まれる栄養素は極めて豊富で、人が体内で作ることが出来ない必須 ”アミノ酸” 9種を全て含んでいるのをはじめとして、脂肪の燃焼を促進する ”リシン” 、多種多様な “ビタミン” “ミネラル” ”タンパク質” 、そしてスタミナに寄与し鰹節独特の旨味成分をもたらす ”イノシン酸” などを高バランスで含んでいます。

鰹節の原初は既に縄文時代にあったといわれ、当時 ”干し鰹” のような状態で食していたのではないかと推測されているそうです。

飛鳥~奈良時代に「堅魚(かたうお)」の名で珍重され、室町時代には ”焙乾” と呼ばれる燻製製法が開発され ”かつおぶし” の名も登場します。 江戸時代に紀州由来の燻製法が導入されて現在の鰹節の基礎が固まり、以降、日本人の食卓へ香りと旨味、そして栄養を届ける華となっているのです。 まさに、数百数千の時が作り上げてきた和食の宝石と言えるでしょうか。

 

そんな 鰹節をこよなく愛用していた ひとりの武人がいました。

名を “大久保忠教(おおくぼただたか)” 、一般には ”大久保彦左衛門” の方が通りが良いでしょうか・・。 幕府旗本であり、後に演劇、講談に取り上げられ、昭和時代には映画・テレビドラマなどで放映された「一心太助」の名脇役として知られた方です。

忠教は常の生活のみならず、戦の折も鰹節を多く携帯しており「戦の前や腹ひもじき時に鰹節を噛めば 殊のほか力になる」と伝えていました。 また友人であった井伊直政が病の床に伏した際にも「身分が高まっても粗食に慎み 鰹節を朝夕食すること」を勧めたといいます。

携帯も可能で保存性も高く栄養価の高い鰹節を、自らの食生活の基本に置いていたのでしょう。 如何にも ”質実剛健” の人柄が忍ばれますね。

 

明治時代に描かれた若き日の大久保彦左衛門

さて、そんな忠教、”大久保彦左衛門” の通名で後世に語り継がれてゆくこととなります。

天下静謐となり江戸幕府も安定した頃、旗本以下の登城に輿(担ぎ手に支えられた乗り物)の使用が禁止された際、当てつけとばかりに作らせた “大だらい” に乗って登城した。

時の将軍、徳川三代 家光に対して幕臣でないにもかかわらず、臆することなく直に諫言(指摘・忠告すること)を重ねて一目置かれる存在であり ”天下の御意見番” と呼ばれた。 など、いかにも無骨で、権威に媚びへつらうことを嫌う人となりが謳われています。

この話は当時の多くの人々の共感を呼び起こし、やがて彦左衛門は古武士の魂を太平の世に具現する鑑としてもてはやされ、ついには一介の魚売りの後ろ盾となって庶民の困苦を救う物語『一心太助』の登場人物にまでなりました。

 

しかし、これらの逸話・ストーリーは彦左衛門の死後、江戸の人々、市中口伝によって広がっていき、やがて講釈や歌舞伎として語られたものであり、『一心太助』の物語はもとより上記のような史実は無いものとされています。

それでは、何故 彦左衛門の生涯にこのような人物像が当てられているのかと言うと、それは、彼が晩年に書き留め後世に遺した三巻の史書『三河物語』にあるようです。

大久保家は徳川の元たる松平家創始・松平親氏から仕え続け、徳川幕府成立にまで忠義を尽くした家柄でありました。 彦左衛門は戦国末期に生まれた人でしたが天正4年、武田勢に対する徳川勢反攻の進撃戦に初陣を飾って後、数々の戦をくぐり抜けた歴戦の勇士でした。

ただ戦に武勇を発揮しただけでなく、非常に ”義” を重んずる性分であったようで、極めて不利な状況下でも忠義のためなら喜んで参戦する。逃げる者は討たない。自らの武功でなければ報奨も受けないなど、徹底した忠義と武士道を体現した人であったようです。

彼の義心が報われたのか数十年の時を経て太平の世が訪れ、勃興した徳川幕府は安定の時期へと至りました。 ですが、皮肉なことに時代は平和や安定と引き換えに、この時代を築いた ”もののふ” の不要な社会へと変わっていたのです。

平和な世の中に必要なものは刀を振り回す者ではなく、政策や統治力に優れた者となります。 そして、それは多くの場合 “義” ではなく ”権謀術数” に長けた者が利を得やすい世の中であることは、時代を違わず同じことなのでしょう・・。

『三河物語』は そんな世に対する彦左衛門の不満と疑義の発露であったとも受け取れます。

戦国の世の後、大変革の波を越えてもはや不要とされ食い詰めていた浪人たちを、率先して救済し 再士官先を探していた彦左衛門からすれば、家格や手練手管で成り上がり安穏としている幕政や世の姿に、どうしても一言申したかったのではないでしょうか?

諫言はともかく三代将軍家光は忠教=彦左衛門を覚えており、身近に招いては戦国の話を聞いていたとも言われています。 寛永16年 今際の際にあった彦左衛門に対し、5000石もの加増を申し下げますが、彦左衛門は「申し出有難きものの、余命幾ばくもなき この身には不要」と固辞しています。

 

新しい世代にして古き世代の主張とは得てして煙たく面倒なもの。そして古き者の主張が時代に乗り遅れ立ち止まったものであることも事実でしょう。しかし、その中には忘れてはならない大切な心の持ちようや、経験から学んだ知恵が含まれているのもまた事実。

彦左衛門が遺した『三河物語』数々の遺言は、言ってみれば一老人のつぶやき・愚痴であるかもしれませんが、同時に形式や打算ばかりが蔓延る社会への警告でもあったのでしょう。 鰹節のように固く味わい深い彼の遺作が一笑に付されることなく、多くの共感を呼んで現代にまで伝えられていることが、その証左であるように思えるのです。

 

 

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