どこかで聞いた 紙は長~いお付き合い(中)

昭和の時代には現在に比べて “紙” が多様な場面で用いられていましたね。

当時、私が住んでいた家の3軒隣が公設市場*でした。
毎日夕方には母親が買い物に出掛けていたのですが、お店で買う野菜や果物などの多くは古新聞紙や粗製の包装紙に包んで売られていたのを憶えています。
(肉などは竹の皮のようなものに包んで、さらに紙に包んでいたかな・・)

お医者さんでもらうお薬も粉薬が多く これも紙包みでしたね。三角形のような台形のような独特な包み方で、子供だった私にはもらいたくない紙包みの代表でしたw。

もらって嬉しい お菓子(特にアメ玉など)も紙包みにバラバラッと入れてくれました。

一見して分からないですが、パッと見 高級そうなカバンなども安価なものは、表面を合成皮革で覆った厚紙であったなんてことも少なくありませんでした。(当時なりの工夫だったのでしょうね)

書写材として以外の用途も少なくなかった ”紙” 、その多くは時代とともに合成樹脂を利用したものに置き換わっていきますが、おそらく当初は生産性やコストの面からの採用であり、森林保護や資源の継続化が話題になるのは昭和も終盤から平成にかけての頃と言えるでしょうか・・。

 

パピルス紙や羊皮紙、またそれらより古く(メソポタミア期)文字や図形を残すために用いられていた「粘土板」や、日本を含む東アジアで使われていた「木簡」などは、現在、紙が果たしている “記録媒体” としてのご先祖様と言えますが、構造的には紙とはかなり異なるものと言えるでしょう。

今日、一般的に紙とされる “洋紙” や “和紙” の直接的なご先祖様は、紀元前2世紀頃 中国(現在の)で発明されたものとされています。

放馬灘紙(ほうばたんし)、異なるところで 灞橋紙(はきょうし)などと呼ばれるそれらは、今日の紙の製法の原始と呼ぶに相応しいものでした。

麻の繊維や樹皮の細切れ、ワラや竹などの細粉などを水で洗いすすぎ、灰汁で煮出した後乾燥させ、臼で挽いてさらなる微細粒として再び水に溶かした後 漉き上げる、という現代でも “手漉き紙” で見られる手法と原理的にほとんど変わりません。

只、これら原初の紙は書写材としての機能にはいささか貧弱で、主な用途は貴重品の仮包みとして用いられていたのではないかと見られています。

放馬灘紙の断片 © Wikipedia

 

この数十年後、後漢時代の王、和帝は書写材として有用な紙の開発を臣下に命じます。王宮の資材管理を任されていた蔡倫(さいりん)は、以前からの紙(包装紙)を基本に材料・製法を吟味して、ついに書写に足る “紙” の開発に成功し和帝へと献上しました。

薄く、折り曲げに強く、パピルスや羊皮のように書写に長けた “紙の始め” は、蔡倫の名を冠し蔡侯紙(さいこうし)と呼ばれ、歴史の一遍を飾ったのです。

 

こうして発明された現代に続く “紙” は、以後 数百年のうちにその練度を高めながら西方へと伝わり、10世紀頃には西洋諸国における記録媒体の主座を置き換えてしまったのですが・・。

この中国発の紙製法が西方に伝わったのは ”戦争” であったと言われています。

西暦751年、後に「タラス河畔の戦い」という大きな戦が、アジア大陸と中東地域を接する領域で発生。(現在のキルギス共和国の辺り)

アッバース朝(当時のイスラム王朝勢力)と中華王朝「唐」との間で、中央アジアの覇権を巡り4ヶ月に渡って繰り広げられたこの戦争はイスラム勢力の勝利で終え、唐側は甚大な被害を被るとともに その覇権領域を大きく後退させることとなり、国力そのものにさえ大きな影を落とすこととなりました。

タラス河畔の戦い

大敗した唐側は数万人に及ぶ戦死者を出し、二万人ともいわれる捕虜を西方に連れ去られることとなります。 そして この時の捕虜の中に ”紙漉きの職人” が居り、これによってイスラム圏は ”紙の製法” を獲得するに至ったのです。

イスラムに持ち込まれた漉き紙は “サマルカンド紙” として定着し、さらに西方へと伝わります。 経過はともあれ、異郷の民の移動とは文化の移動であり歴史の変節点とも言えましょうか。 こうして中国で生まれた “紙” は中東へ、そしてヨーロッパから世界へと広がっていったのでした。

 

 

一方、日本に この “紙の製法” が伝わったのは、この戦より少し前、7世紀の初頭 高句麗から渡来した僧 曇徴(どんちょう)によるものとされています。

「且能作彩色及紙墨 并造碾磑(彩具や紙墨を作り 水臼も作った)」

との記録があることから日本における “紙の創始者” と伝えられています。

但し、この伝承には記録的な裏付けが薄く、また、当時 戸籍や税の管理など多くの紙を必要とする統治体制が既に確立されていたことから、これより早い段階で “紙” は日本国内に定着していたのではないかとも言われているそうです。

 

古墳時代末期に伝来、奈良時代に定着した紙は、平安時代になると宮廷内の貴族をはじめとして多くの官人・氏族の間で盛んに使われるようになります。

“ありおりはべり” 皆さんもご存知のように多くの古典や和歌が現在にまで伝わり残っているのは、書写具としての紙があり その実用性と耐久性が優れていたからに他なりません。

小大君(大和文華館)© Wikipedia

 

因みに日本最古といわれる紙は正倉院宝物に納められている飛鳥時代(702年)の戸籍に関する記録紙、そして、世界最古といわれる印刷物は奈良時代(764年)称徳天皇の命によって制作・奉納された「百万塔陀羅尼(ひゃくまんとうだらに)」に内包する “写経” だそうです。 この写経現在でも多数 現存しているそうで、”上質なものは千年もつ” といわれる和紙の耐久性の証左ともなっていますね。

 

時の中国で発祥し、西方へそして当方へと伝わり広まった “紙” 、それらは各々の世界で発達し時代を越えて再び相まみえることとなります。

中世から近代へかけての紙の歴史、後編をもって締め括りたいと思います。もう一編お付き合いのほど お願い申し上げます。

 

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