那岐山の巨神 そして巨神の申し子(後)- 岡山県

美作の山河を整え作り上げた “さんぶたろう / 三穂太郎” 、蛇神・神霊の申し子故の巨神伝説を残して那岐山の土へと還り、文字どおり美作の風土と化しました。

岡山県勝田郡奈義町にある「三穂神社(みほじんじゃ)」 事代主を主神として祀るとともに、この美作を開いた巨神の亡骸から残った頭部を依り代として、「こうべさま」の名によって地域のみならず、北備から因幡国に至るまでその崇敬を集めていました。

千年の時を経た現在でも社においては「頭」の文字を書き連ねた紙を貼ることで、学業成就の祈りを捧げる風習が残っているのだとか。

 

ここで、ふと思いつくのは ”学業成就の願い” といえば思い出されるのが「菅原道真公」、「天神さま」の名で親しまれ信仰される国内屈指の著名の神なのですが、「三穂神社」の主体ともいえる「こうべさま / 三穂太郎」が “知恵の神” として崇められるのにも、この菅原道真公に関わる縁起があったからこそなのです。

その名は「菅原三穂太郎満祐(すがわらさんぶたろうみつすけ)」 菅原道真の末裔であり、美作の地に移り住んで土着した “美作菅氏” の祖ともいえる人物です。道真公の血脈よろしく知勇に優れた人で、国造り・発展に寄与し、吉備国にあっても名家の一統と讃えられる一族を形成しました。

那岐・奈義の地に息づいていた巨神信仰に この ”菅原三穂太郎満祐” が結びついたのか、 ”菅原三穂太郎満祐” をもって巨神信仰が生まれたのかは詳らかでありませんが、地域の人々の崇敬は篤く、三穂神社 境内前には ”満祐公” の像が建てられています。

さて、前編でお伝えしたとおり、後編ではこの三穂太郎に連なるとも思える不思議な民話をご案内させていただきます。場所は那岐・奈義の地より北西に10里ほど隔てた場所、鳥取県との県境もすぐ目の前「蒜山」の裾野「八束」に伝わるお話です。

 

 

「大清三」

さてさて その昔 蒜山仰ぐ八束の村に 清三 という男が住んでおった

この清三 蒜山の主といわれ この国を造ったと伝わる大人(おおしと)の申し子ではないかと言われるほど大柄で その身体も腕も人並み外れて大きく太く荒れており 知らぬ者なら誰も近寄ろうとは思わぬほどやったそうな

三貫目もあろうかというほどの大鍬を まるで団扇を扇ぐかのように軽々と扱い
並の者なら数人で二日三日掛かろうかという田起こしでも 一刻も掛からぬ間に済ましてしまいおる

とにかく その雑作はとても人とは思えんほどで 体も動きも荒かったが この男 天真爛漫とでもいうか 気は悪くなく 裏表のない性分やったので 村の者からも好かれておって いつしか ”大清三” の名で呼ばれるようになっておったと

ところで そのころ 日照りが続いた按配もあってか実りも落ちて 村どころか国中あちらこちらで一揆が起こるやの野盗が蔓延るやの ずいぶんと物騒な頃合いやった

挙げ句 押し入り(強盗)がうわさが流れるようになると どこの庄屋も気安く眠ることもできん

禾津の大庄屋もそのひとりやったが 近在で名高い大男 ”大清三” の話を聞きつけると「それほどまでの荒男ならば いざという時の用心棒にもなろうか」と早速 人伝を頼んで清三を雇い入れたそうな

 

ところが どうしたことか

今日は木こりやと言うて山に上がっても 人が汗水垂らして精出しとるのに この清三 ぐうぐういびきをかいて寝るばかりで ちっとも起きようともせん 起きてくるのは昼飯の時ばかり

「何ちゅう なまくら者や・・」 皆呆れておった

ようよう日も傾き そろそろ仕事終いも近い頃になると ようやく起きてきた清三
今頃 起きてきおってと訝る皆の声も 素知らぬ顔

ところがどうだ 一番大きな斧を二本両手にとると あれよあれよという間に 五、六人分の仕事を片付け さっさと山を降りてしまいおった 舌を巻くとはこのことや

 

また ある日のこと

今日は庄屋の屋根換えやというとき 朝の早うから皆せわしく働いとるのに 清三ひとり 子ども相手に遊んだり昼寝をしたりと いっこう動こうとせん

もう葺き替えの職人が来とるというのに 清三に言いつけておいた縄が一本もなわれておらん 我慢しきれんようになった庄屋が

こりゃ清三! いつになったら縄をなうんじゃ! と発破をかけると

「ホイホイ それじゃそろそろ始めやすか」と そこいらの藁束むんずと掴んで
りゅんりゅんと とんでもない勢いでなってゆく
見る間に庭先はなわれた縄で埋まってしまい 足の踏み場ものうなってしもうたと

 

またまた ある日

庄屋は用事が出来て勝山まで出掛けることになった

清三に籠の片棒を担いでくれというと 面倒じゃでワシひとりで担ぐという
いくら何でも ひとりで担ぐのは無理じゃろうと諫めたが ひとりで担ぐといい張りよる

阿呆が! それほどいうなら担いでみろ 今日は暑いからなるべく涼やかな場所を通れよと やらしてみたならば

どこから探してきたか 人ほどもあろうかという大石を籠棒の後ろにくくり下げると
庄屋の乗った籠を前に下げ 天秤棒のように担げると ホリャ! エッサホイサと足取りも軽く進んでゆく

なんとまぁ大したもんじゃと 庄屋も気分を良くして揺られておったが しばらくするとピタリと止まって動いておる気配がない

「オイ清三 どうした? なぜ進まん?」と 垂れ幕を上げて籠から身を乗りだそうとした庄屋 心の臓が口から飛び出そうほどに驚いたとな

籠のはるか真下に旭川が飛沫を上げてとうとうと流れておる

何と清三 山間に架かった橋の真ん中で欄干に片足を掛け 庄屋の乗った籠を流れの真上に突き出しておったのじゃ

「せ、清三! 何ちゅうことをしよるんじゃ!?」

「申されたとおり 涼やかな場所でしょうが」清三 笑っとる

「も、もうええ! 冷えた!冷えた! 早!早う橋渡ってくれ!」

 

まぁ 事程左様にこんな按配なもんで さすがの庄屋も扱いならん
ついに 清三に暇を出すことになったと

いかに清三とて手は二本 米を持てるだけ持って去んでええぞ というと
何と清三 長梯子に八俵もの米をくくり付け ヨイサと担いで持って帰っていったそうな

 

しかしまぁ あれは本当に人じゃろうかと 清三の後をつけて見にゆく者がおった
八俵の米を担いだ清三は 悠々とした足取りで藪の峠を登り 山深くへと入ってゆく

いつしか霧が立ち込め 真白の彼方へと清三は消えていったそうな

それから二度と 八束の里はおろか新家にも清三の姿を見た者はなかったと

蒜山の山中に松の切り株を枕に昼寝をする 清三を見たという噂もあったが確かではない

まこと ありゃあ蒜山大人の申し子じゃったと人々は語り継いだそうな

 

言うなれば “異能の者” “手力男” による逸話であり、大凡の部分において滑稽話・笑い話なわけであり、美作の巨神の出自や謂れに触れるものではありません。

しかし、締めの部分において不思議の装いをまとい、やがて神厳の世界へと結び付けられていますね。

この話自体が直接 “三穂太郎” を指し示しているわけではありませんが、全国各地で見られるような “笑い話” の主人公に 上手く神性を融合させており、これは取りも直さず、この美作の地に “三穂太郎” への想いやイメージが深く根付いていることを示しているように思えます。

地域に残る伝承とは、その地域を形作ってきた歴史や風土を色濃く語り伝えるものであり、そこに住まう人々の想いそのものでもあるのでしょう。
今も蒜山や美作の山々に “三穂太郎” は生きているのかもしれませんね。

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