越後の怪傑 黒鳥兵衞と名残り湯の真実 -(後)

凶事の象徴のような不穏の黒雲が立ち込め、季節外れとも思える猛烈な風雪吹き荒ぶ中、越後へと着陣した 加茂次郎義綱 率いる討伐軍は、兵衛の軍勢に果敢に挑んだそうです。

 

武においては並ぶ者無しと謳われた名将 義綱の力をもってしても、奇怪な妖術を駆使して歯向かう兵衛は中々に攻略叶いません。

それでも徐々にその趨勢は義綱の軍に傾き、兵衛の一党は次第に追い詰められ やがて的場の藪に追い込まれたのだそうです。 しかし、それは兵衛の策でもありました。

的場の藪は草木生い茂って見通しが悪いばかりか、当時この一帯は沼のはびこる湿地であったため足場がとても悪く、ここまで追い込んだものの義綱の軍勢は最後の一手を打ちあぐねていました。攻めれば攻めるほど軍の手勢が失われてゆくのです。

このままでは いつしか兵衛たちに逃げられかねん・・ 悩む義綱は戦勝を期して弥彦の社に請願を立てました。 すると、いずこからか真白な鶴が二羽飛来して、義綱の目の前で沼地に数本の小枝を落としたかと思うと それを足に挟み、ゆるゆるとした沼の上を歩いて渡ったのだそうです。

これぞ 弥彦の神の神託ならん! と思い立った義綱は、部下に命じて木々の枝を集めさせ、これを編んで足元に付ける道具を大量に作らせたのでした。後の時代に重宝される “かんじき” の元は これが始めと言われています。

 

兵たちに “かんじき” を装備させ 足下の憂いが無くなった義綱の軍は、号令一下 怒涛のごとく兵衛たちが立て籠もる根城に打ち寄せました。

まさかに沼を渡ってくるとは思っていなかった兵衛たちは不意を突かれ、たちまち大混乱に陥ります。 それでも “ここが正念場” と悟った兵衛は黒装束に身を固め義綱に一騎打ちを挑みました。

互いに大張りの弓に矢を番えギリギリと引き絞り一閃!、兵衛の胸を義綱の放った矢が貫きます・・。 それでも兵衛は構えていた矢を放ちますが義綱の身をかすめて射抜くことはありませんでした・・。

その場に倒れ伏した兵衛の首は刎ねられ、ここに越後の国に暗雲をもたらした悪賊 黒鳥兵衛の命運は尽きたのです。

 

兵衛の首が落とされた地は ”黒鳥” の名が残り、塩漬けの首を埋めた青木には ”首塚” が建てられましたが、この一件以降 ”首塚” から慟哭が聞こえるとの噂が広がり、困った村人たちは 後に首と胴をひとつにして葬ったといいます。 毎夜の慟哭は止んだものの その後も時折 地鳴りのような声が聞こえるとされ、人々はこれを ”胴鳴り” と呼んで恐れたそうです。

緒立の地には温泉が湧き、今でも地元の人々の心身を癒していますが、この泉質に塩分が含まれているのも “塩漬けの首” に由来していると伝わっています・・・。

黒鳥兵衛豪勇伝 / 錦城斎貞玉 に見る黒鳥兵衛とかんじき

 

以上が、越後、緒立から新発田(現在の新潟市周辺)にかけて残る「黒鳥兵衛」伝承のあらましです。 勧善懲悪の軍記物として成立していますが、皆様はどのように感じられましたか?

分かっている史実の上で、黒鳥兵衛なる人物は確認出来ません。
安倍正任の子とされる兵衛ですが、正任に子息の記録は残っておらず “前九年の役” 敗戦後、首謀者 安倍頼時の子らは、若くして四国伊予の地へ配流となっているので、その存在性は不確かです。

しかし、大戦の混乱が生んだ多くの散逸者のうちの誰かが越後の地に逃げ込んだとしてもおかしくはなく、それが安倍の血を引く者であっても不思議ではないでしょう。
僻地に身を潜めながら一族の再興を願い、力を蓄えている様は容易に想像出来ます。

されど、この地で悪逆を働き民を苦しめ続けたというのはどうでしょうか・・?

 

往古の戦では その終戦後に残党狩りが行われるのが通例です。 そのような状況下で目立ち、住民から通報されるような暴威を振るっていれば、たちまち中央に知れてその追撃を受けることは明白であり、通常の判断や行動とは思えません。

過去の記事 でも触れたように、たとえ再興の意思があったとしても落武者は静かに生きようとするものです・・。

事実、黒崎(元の黒鳥)の地をはじめとして、この一帯では「黒鳥兵衛」に悪逆の徒という印象を持っている人は少なく、どちらかというと緒立の温泉にまつわる往古の人というイメージが多いとの話もあります。

もしかすると、兵衛はなにかしら緒立の開湯に関わっていたのでしょうか・・?

江戸時代に不治の病を患った娘が三日入浴したことで、その病が全快した伝説から ”霊泉” とも讃えられる “緒立温泉” は、地元の人々にとって忌むべきものどころか 誇りであり宝なのです。

 

戦そのものにも訝しさの残る “前九年の役”、 戦火を生き延び僻地に逃れて、新たな人生を土着に静かに生きようと願っっていた若者、間諜か密告を通じて見つけた中央が力で処罰したものを、中央側の都合で勧善懲悪の軍記物に仕立て上げたのだ、と言ったらあまりに勝手な想像でしょうか・・?

伝承、否、現代の伝聞においても、そこに何らかの大きな力が働いて事実が歪められること、隠されることは少なくありません。

全ての真実を手にすることは無理だとしても、その話の向こう側に意外な事実があるかも知れないことを忘れずにいたいものですね。

 

PS:安倍氏の衰亡を基に始まった今回のお話ですが、”安倍” の姓を聞いて皆様はどのような方をイメージされるでしょうか? もしかすると先年まで首相を務められた “安倍晋三” 氏を思い浮かべられる方もおられるかと思いますが・・

それもそのはず、第90及び 96~98代 内閣総理大臣、安倍晋三 氏は、 “前九年の役” 終戦後、伊予国に配流された 安倍宗任(あべ のむねとう / 安倍頼時の三男)を祖に持つ44代末裔であるのだそうです・・。

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