隠れ里の氷水は時に流れて何を伝える – 長野県

中央やや左手がカクネ里氷河

“氷河” と聞くとスイス・アルプスやネパールの山岳地帯、はたまた南極大陸などを思い浮かべますが、いざ、それでは日本にも氷河って有るのかな? と考えてみれば、これがどうも微妙な感じ・・

日本にもアルプスと称される山脈はあるし、東北地方以北ならそこそこ寒冷地域だし、それなりに在りそうな感じはするけれども あまり大々的に “日本の氷河” って聞いたことないな・・

そもそも あんな極寒の大自然の中で生成されるもの やっぱり日本には無いのかな・・ と、思っていましたら、やはり日本にも氷河は有りました!

富山県の立山連峰にある三ケ所の雪渓がそれぞれ “小窓氷河” “御前沢氷河” “三ノ窓氷河” として2012年に認定されていたのです。

認定・・? そう、やはり日本では誰が見ても解るような大規模ではっきりとした氷河は中々形成されにくく、20世紀の間は “日本に氷河は存在しない” とされていたそうで、極東における氷河の南限はカムチャッカ半島だったのだそうです。

 

ともあれ、日本にも氷河が有ることが解り、その数が計7ヶ所に上ることも知りました。

富山県︰立山連峰 “小窓氷河” “御前沢氷河” “三ノ窓氷河” “内蔵助雪渓” 剱岳 “池ノ谷雪渓”

富山〜長野県︰飛騨山脈 “カクネ里氷河”

長野県︰唐松岳 “唐松沢雪渓”

本日はこの中から長野県の話題として飛騨山脈の “カクネ里氷河” を取り掛かりにしたいと思います。

夏季のカクネ里氷河

 

“カクネ里” という呼び名、少し変わった名前ですが、元を正せば “隠れ里” が訛ったもの・・ その名から ご想像されるように、この地にはかつて落武者による隠棲の集落があったと伝えられています。

平安時代も末期、(つい先日の記事で登場した)”以仁王” の呼びかけに端を発し、やがて国を分けての大戦となった “治承・寿永の戦い(源平合戦)” において事実上 滅亡の道を辿ったと言われる平氏一門、

壇ノ浦の戦い で敗者となった一族の多くは討ち死に、入水し、または散り散りに落ち延びました。

西は 九州、五島、奄美、沖縄、東は 東北、蝦夷(北海道)の地まで、まさに国内各地に散らばり人目を忍びながら小さな村落を作り生き長らえたのです。

長野県には伊那市の東部、赤石山脈の麓、長谷浦に平維盛(たいらのこれもり・平清盛の孫)または維盛の一族が移り住んだという言い伝えが残っており、山中に在って長谷-浦という名は壇ノ浦から来ているものだとか・・

伊那市長谷浦からカクネ里氷河までは県内でも南北に隔たって距離がありますが、この飛騨山脈のどこかに、これら平氏一族の一派や、また逆に源氏方の内紛で没落した源義仲(木曽義仲)の末裔などが隠棲していた可能性は充分に考えられますね。

 

壇ノ浦の戦い において雌雄は決し、平家は滅亡したとされますが、それはあくまで氏族勢力としての力を失い 一族の趨勢が瓦解したということであり、言うまでもなく一族郎党すべての者が粛清されたわけではありません。

維盛の正確な消息については不明な点が多いのですが、長野に移り住んだ その一族のように全国に点々と隠棲・安住の地を見つけた人々も散見され、昨年お伝えした「落日の先の未来 椎葉鶴富姫伝説」などは まさにこれに当てはまりますね。

また、そもそも源氏・平氏 とも奈良時代から続く名跡であり、歴史の中で様々に枝分かれ家縁を結び また広がっているので、紋切り型に完全な源家・平家というのはむしろ限定的で、源平合戦(治承・寿永の戦い)にあっても 源氏方に与した平氏もあれば*、その逆もあり、戦後も政権に関わり家命を繋いだ平氏系士族や官人も少なくありません。
源頼朝に与した多くは坂東平氏系(平清盛は伊勢平氏)

 

とはいえ、当時、源氏による戦後の追討作戦は峻厳を極めたため、落ち延びた平氏側が分け入り築いた隠れ里は、必然的に追手から遠く人の目に触れず踏み入らない秘境のような山の奥深くや辺境の孤島ということになります。

飛騨の山深く氷河も出来るような極寒の地に 安息の地を求めたのも当然の成り行きなのかもしれませんが、決して生きやすいとは言えぬ環境で、少なくとも数年~数十年に渡って、息を殺すがごとく ひっそりと糊口をしのいでゆく暮らしとは如何ばかりなものだったのでしょうか・・。

 

いかに世をはばかる暮らしとは言え、長年の間には在地の人々の目に触れたり、時には交流を持つこともあったでしょう。

”島” という限られた区域の地に落ち延びた一派は おのずと ”隠棲” にも限度があるために、鹿児島県奄美諸島の加計呂麻島(かけろまじま)に流れ着いた平資盛(たいらのすけもり)一行は、最初から島民との融和を図るために “舞・狂言” を披露したといわれ、その舞台は現在「諸鈍シバヤ(ショドンシバヤ)」という民俗芸能として受け継がれているそうです。

 

ある者は討ち死に、ある者は逆巻く海に身を投げ、ある者は生き延びて苦渋の生活を余儀なくされ、 そして、勝者となった総大将 源義経も時を置かずして追われる身となり、壇ノ浦の戦いからわずか四年後には非業の最期を遂げており、また、平定を成し遂げ鎌倉幕府を勃興し、征夷大将軍にまで上り詰めた源頼朝も 事実上わずか一代で、その権勢を北条家に奪われています。

古代日本史最大の内乱「壬申の乱」中世の大規模権力闘争「治承・寿永の乱」近世「戊辰戦争」そして その間に幾度となく繰り返される大小の戦・・

怒涛のごとく押し寄せる嵐のような時のうねりの中で、人はいつも抗する術を持たずただ押し流され、平和を望みながらも自らの安泰のために より大きな力を欲します。
そして、力持たぬ民草はいつも吹き荒れる風の中で蹂躙されるがまま・・

嵐が過ぎ去った後の惨状を積み重ねながら、明治以降、究極の大戦を刻んでようやく辿り着いた継続の平和・・

先の大戦の反省をもって反戦平和の理念を抱くことは 現実的な思考だと思いますが、人は元々その中に平穏と欲望を同時に持ち合わせる生き物、千年の時の教えを今一度振り返り、人の心の中にある矛盾と弱さを克服する、または相互に理解・補い合う本質的な道を模索するべきなのかもしれません。

カクネ里氷河の氷塊はその厚さこそ数十センチメートルと世界的な氷河には及びませんが、その形成には数百・数千の時が流れ ”氷河” の態様のままに、その自重によって年間約2.6メートル程も押し流されているそうです。

そして、その一部は溶け清水となって 麓の仁科三湖や鹿島川そして信濃を潤す高瀬川へと流れ込んでゆきます。

繰り返され積み重なる歴史の中に何を見るのか、何を学ぶのか、そして それをどう活かすのか、そこにこそ人が生きてゆくべき指標が隠されている気がするのです・・。

 

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