興味深いことに、人は必ずしも “正義” のみを愛するものではなく、粗暴な振る舞い、謀略に長け、時には “悪” に関わり社会に害為す者であっても、そこに何らかの魅力を見出した場合、共感を感じてエールを送りたくなるもののようです。
梟雄(きょうゆう)という言葉がありますが、もう少し砕けた現代的な表現で呼ぶなら “ダークヒーロー” とでも言うのでしょうか。
斎藤道三 は “美濃のマムシ” とまで呼ばれるほど、その権謀術数を駆使して多くの者を追い落とし、一介の油売から一国の主にまで成り上がった奸物でしたが、それ故に時代や人間に対する洞察力は並外れており、娘婿となる信長との逸話など関心を呼ぶエピソードも多いですね。
中国、三国時代に活躍する 曹操孟徳 / 曹操(そうそう)は、「三国志演義」に 欺騙を弄して王朝を奪い暴虐を振るう大悪人、劉備・関羽の宿敵として描かれますが、その実情は気性の激しい人物ながらも、公正と人情に溢れた人物だったとも伝えられています。
個人的には 松永久秀、室町幕府崩壊の因となり東大寺を焼き払い、信長の軍門に降るも二度の謀反の果て、信貴山において壮絶な最後を遂げるという波瀾万丈の人生を “大河ドラマ” などで採り上げてくれれば面白いのに、と思うのですが・・、無理でしょうね・・w
こういった 梟雄・ダークヒーロー的な人物は、時代や国の東西を問わず必ず現れるものですが、日本海を間近に控えた ここ新潟県西区 緒立の地にも一人の怪傑伝承が残ります。
その男の名は「黒鳥兵衛(くろとりひょうえ)」 平安時代の人物とされています。
“前九年の役”(1051~1062年)、平安後期、東北、陸奥国の豪族であった安倍氏の朝廷に対する謀反と、これを鎮圧するために繰り広げられたこの戦乱は、一般的な歴史ドラマの主題となることは少ないものの、後の奥州藤原氏の勃興や 河内源氏の隆盛による源頼朝の輩出など、時代に与えた影響には計り知れないものがありました。
「黒鳥兵衛」は この前九年の役で破れ滅んでいった安倍氏の棟梁「安倍貞任」に仕えた武人であり、一説には一族 安倍正任の嫡子であったとも伝わります。
奥州一帯を統べていた安倍氏とその縁類の人々が、藤原清衡一人を除いて一掃されたこの戦、安倍氏による反乱が発端とされていますが、過分に朝廷側の蝦夷地に対する蔑視や支配権拡大の意向が見え隠れしており、疑問の残る戦役でもあったのです。
安倍氏 滅亡の後、再起と復讐を誓った 兵衛は一旦、出羽国鳥海山へと逃れ、後に起こった “後三年の役” に呼応して蜂起するも障害に遭ってこれを断念、越後の地へと移り 五十公野(いずみの / 現在の新発田市)に砦を構え配下たちとともに籠もりました。
そして、難事はここから始まります・・
砦に籠もった兵衛たちは地元の民に対して数々の非道を成したのだそうです。
人々を徴発しては過酷な労働に服させ、民のものを奪い婦女子に狼藉を働き 暴虐の限りを尽くしたとされています。
それどころか兵衛は鳥海山に居た頃に修験道を学び、そこから ”妖術” を会得しており、従わぬ者、敵対する者に対しては容赦なくこれを用いて圧政を振るったといわれ、その暴挙はとどまるところを知りませんでした。
鳥海山から五十公野に移り住むまでに抱えた配下も既に数百を数えるまでになっており、これらの者共の食い扶持を供するだけでも、地元の民は飢えに瀕することとなってしまいます。
困り果てた在地の民はこれを朝廷に直訴、報告を受けたお上はすぐさま 北畠時定を大将に一万二千の討伐軍を組織し越後国へと差し向けましたが、兵衛は妖術を駆使して激しい風雪を招き、この軍勢を苦しめます。
意気高く出陣した討伐軍も想像を絶する兵衛の戦法に翻弄され、ついに敗退の余儀無しに至ったそうです。
通常の者では兵衛を誅しきれぬ・・、窮した朝廷は家内騒動が因で佐渡に流されていた猛将 “加茂次郎義綱 / 源義綱” を赦免し、これを総大将とした討伐軍を再編成、鎮圧に当たらせることにしたのでした・・。
以前にも増して兵も装備も整え、越後へと着陣した義綱の軍、するとそれまで快晴であった空は一転俄にかき曇り、今までの天候が嘘であったかのように黒い霧が立ち込めると不穏な風が吹き荒びました。
「これが 兵衛の妖術か・・」義綱は武者震いに震えたのです・・。
大戦の結果、一族を滅ぼされ、その苦しみ、無情さから 宗家の復興と敵方への復讐を誓って再起を期すことは、当然に予想される思いであり、理解出来る行動ですが、そのために関係のない庶民を巻き込み、いわんや暴虐を振るうなど許されるものではありませんね。
さて、越後へと向かった義綱率いる新討伐軍、黒鳥兵衛を相手に善戦に至ったのでしょうか、そして黒鳥兵衛の真実とは如何なるものでしょうか・・?