明神と鍛えた名剣 相槌稲荷伝説 – 京都府

本日は2018年11月の再掲載記事となります。ご了承ください。

京都三条通り、歴史を感じさせる町家が居並ぶ一角に「相槌稲荷神社」があります。
辺りの風景に溶け込むように、否、ややもすると埋もれるかのように町家と町家に挟まれた細い小路に静かにそして厳かに佇んでいます。
この一帯は古くより産業の盛んな地であり、又、鍛冶工が多く働く町でもありました。

平安時代、この相槌稲荷神社よりほど近い粟田に住まう鍛冶工に宗近という人がおりました。職業名から 小鍛冶宗近(こかちのむねちか)、住んでいた地名に因み三条宗近(さんじょうむねちか)と呼ばれ伝説の刀匠の一人に数えられます。

時は一条天皇の御代、お上自ら携えのための名刀を打つことを命ぜられた三条宗近が、如何にして至高の剣を打ち上げるか考えあぐねた挙句、氏神であった稲荷明神に祈祷したところ夢に神童が現れ’必ずや名刀打てる由 気概損なうことなかれ’との神託が下り、この事に気をとり直した宗近が後日、太刀打ちの浄めを済ませ祝詞を上げていると今度は明神の神使である狐が現れい出て宗近の相槌(太刀打ちの相方)を務めたそうです。

おかげで打ち上がった剣は渾身の快作に仕上がり、相槌を務めた狐によって「小狐丸」の名を残され天皇へと献上されました。

この一連の神事に感謝と畏敬の念を込めて稲荷明神を祀ったのが「相槌稲荷神社」です。
冒頭に書きましたように町家に囲まれた小さな社ですので、観光目的で気ままに訪れるのは少々はばかられます。お参りされる時は静かに参詣されることをお薦めします。

 

三条宗近は実在の刀匠であり後の世に名跡も残しました。只、宗近自身の事績や作刀については往古の事ゆえ断定出来るものはあまりありませんが、宗近作といわれる名刀は後に’天下五剣’のひとつとも呼ばれた国宝「三日月宗近」をはじめ各所に残されています。

三条宗近が活躍した頃はそれまで直刀の形態であった日本の太刀が、後に完成を極める反りをもったいわゆる日本刀の形へと移り変わる過度期でもあったようで、その時代に後世に名を残すほどの宗近の事績、伝説の名に恥じないものであったのでしょう。

 

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