振り返れば今年の冬はそこそこに寒かったものの 暖かくなるのは結構早いようで、桜の開花も例年に比べて1週間から10日前後前倒し状態、既に西日本はもとより中部地方の多くで見頃を過ぎる勢いです。
日本100名城のひとつであり 薄紅の色に映える「高知城」の満開の桜もこの記事が開かれる頃には美しい散り際を見せているのでしょうか。
高知城 / 高知城公園 からもほど近い その名も “はりまや町”、大小の店が居並ぶ商店街の一画に、往来の要衝として、そして高知を代表する観光地として有名な「播磨屋橋(はりまや橋)」があります。
昭和34年に発表された 歌手ペギー葉山さんの「南国土佐を後にして」が空前のヒットとなり、これに続いて同名の映画も日活 小林旭さん主演で公開、好評の内に “渡り鳥シリーズ” につながるなど、高知の名を一躍高めたご当地ソングとなりました。
元々、戦時中大陸に出征していた 高知県出身の兵士たちから生まれた民生歌であったと言われますが、戦後の復員に伴い地元に根付いたものを、作曲家 武政英策さんが歌謡曲として編曲したものだったそうです。
この歌詞の中に登場する “土佐の高知のはりまや橋で坊さん簪・・” の一節が、歌のヒットとともに知れ渡り、戒律を捨てた僧侶と町娘の恋物語という 言わば背徳を誘うフレーズとともに、当地である「はりまや橋」を全国的に知らしめたのでした。
仏道に殉じ、生涯異性に迷うべきでないとされた仏徒が、情を通じた女性に贈り物を買うという往時としては “破戒の愛” は、草紙や戯曲に見られた創作話ではなくれっきとしたノンフィクションの物語であったようで、登場する僧も町娘も実在の人でありました。
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時は江戸末期、僧の名は “純信” 町娘の名は “馬(ウマ)” といったそうです。
純信は元々武家の嫡男として生まれるものの、故あって仏門に入り京において修行を修めた後 故郷へ戻り竹林寺支坊にて住職を務めていたとされています。
ウマは寺の近所で鋳掛屋をしていた大野家の娘で、副業として洗濯を請け負っていたことから寺への出入りがありました。
実は このウマを最初に見初めたのは 純信ではなく、弟子であり未だ若き修行僧であった “慶全” であったのだとか・・
二人は互い憎からぬ仲となりますが、これを諌めたのが住職である純信でした。
修行僧を導く身とあれば当然のことでしょう。
ところが、事態は思わぬ方向へ転がりはじめます。
純信から説諭された二人でしたが、大人の魅力にでも惹かれたのか ウマが20歳も歳の離れた純信へと心傾かせたのです。
驚いたのは慶全、何とかウマの心を繋ぎ止めようと考えた挙句、播磨屋橋のたもとにあった小間物屋で簪(かんざし)を買いウマへの贈り物としました。
つまり、簪を買ったのは この話の主人公 純信ではなく、弟子の慶全であったのです。
しかし、既に純信に惚れ込んでいたウマにはもう相手にされず、それどころか修行僧が女性への贈り物を買い送ったことは市中の噂となっており、その咎で純信から破門されてしまいます。
傷心に打ちひしがれる慶全でしたが、そこに追い打ちをかけたのが、師 純信もまたウマを好いていたという事実でした。
現代の感覚であっても少々違和感を覚える二人の僧侶と町娘の三角関係、世俗を離れあらゆる欲を捨てるべき仏道に反して状況は泥沼のごとく・・
道を閉ざされた上に、自分を諭しておきながらウマと情を通わす純信を恨んだ慶全は、「あの簪を買ったのは実は純信であった」と触れ回りました。
このことは すぐにお上の知るところとなり、呼出し・詰問の挙句、純信は住職を解任・謹慎の処分、ウマも自宅謹慎の身となったそうです。
ところが 既にウマへの想いに囚われていた純信は、ある夜ウマを連れて駆け落ちを強行します。
ウマに袈裟を着せ僧侶姿を装いながら関所を避け 北を目指しますが、事の次第を知った藩からの追使に讃岐琴平の旅籠にて捕縛され国元へと送り返されました。
破戒、処分の放棄、そして関所破りの罪で二人はそれぞれ市中にて三日間晒し者とされた上に追放の身となったそうです。
純信は同郷の知人を頼り伊予に渡って その人の世話で寺子屋の教鞭をとることとなり、一方 ウマは土佐安田村の奉公人として身をつないでいました。
されど、ここに至ってもウマのことが忘れられない純信は、ある日行商人装って伊予を離れウマの元を訪れ復縁を迫ったのだとか。
しかし、今までのことに懲りていたのか ウマには既に純信への想いはなく・・面倒を避けるため程なく須崎の庄屋の元へ移り住みました。
その後、庄屋の勧めで地元の大工と結婚 四人の子を設け、後年 長男が東京で出世してからは一家で上京し、明治36年に66歳で亡くなるまで幸せな老後を過ごしたと伝わります。
一方、純信はウマへの想い断ち難かったものの伊予へ戻り、後に世話になっていた知人が没した後は、中田与吉と名を変えて新たな人生を歩み出し、後に所帯を持ち明治21年、69歳の天寿を全うされたそうです。
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今に伝わり歌に乗せられるお話なので、どんな内容かと思えば幕末土佐の愛憎劇といったところでしょうか。
僧侶とはいえ人の子、いや、真面目一筋に生きてきた身であるからこそ一旦その歯車が狂ってしまうと、時に身の破滅に至るまでとことん狂い続けてしまうものなのか・・。
古来、常人も及ばぬほど身を持ち崩し快楽に耽って、時に犯罪に手を染める破戒僧も結構いたようですから、考えようによっては 純信や慶全のような僧は、人の弱さ愚かさを露わにした甚だ人間的な感情・行為だったと言えるのかもしれません。
純信の晩年はさほど詳らかでありませんが、一説に、また仏道に帰依していたとも言われ、人の心の機微、人生の酸いも甘きも知った上での再精進であったならば、彼の人生も決して無駄ではなかったのだろうと思えるのです。