海渡る光る二つの観音さまの物語(二体目)ー 三重県

前編でご案内した一体目の観音さまは三重県中東部(伊勢・志摩)の相差町を舞台としたお話でしたが、今回はそれより南西部、江戸期において紀伊国の一部であった ”東紀州” 地域からお伝えしようと思います。

古代において国境(くにざかい)というものは些かにも曖昧なものであり、凡そに川や山嶺で分かれていたものの、当然 現在のような正確な測距技術が有ったわけでもなく、そこに分水嶺などの治水権や 農・漁業の収穫量など多くの利害が絡んで様々な諍いや紛争を生んでいました。

上で ”東紀州” は紀伊国の一部であったと書きましたが、この地域がいわゆる紀州の影響下となったのは 天正10年(1582年・信長横死の年) 新宮城を居城とし熊野水軍を率い、同時に熊野別当(熊野三山の統括)でもあった領主・堀内氏善(ほりうちうじよし)によって同支配下に組み入れられたことに始まります。

それまでは元々 志摩国の英虞郡(あごぐん)の一部であり、さらに往古には明確な境界を持たず、かつ、神厳・神秘な地域であった “熊野” の領域であったということになりますね。

本日のお話の舞台となるのは現在に三重県紀宝町、熊野川を挟んで和歌山県新宮市と対岸する正に三重県最南西端の地からお送りします。

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七里御浜(しちりみはま)は 紀宝町の海岸、熊野灘を臨みその名のごとく七里(約20km)の長さを持ち、「日本の渚百選」他多数の選出を得るほどの美しい浜辺で町の宝といえる存在でしょうか。 アオウミガメの産卵地としても知られています。

今から凡そ750年前と言いますから鎌倉時代のお話です。この七里御浜を前にした井田の地に一人の地頭がおりました・・。

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その お館さまは 西忠次 というてな
井田の荘に住もうて辺り一帯を統べておられたが 随分と人の良いお方であったそうな

領主(地頭)と言えば わがままな上に強欲なお人が多いという中
このお館さまは武事達者にもかかわらず 在の百姓・船乗りかまわず大事にしておられた

荘に困り事起きれば助けに出 窮した者があれば施してやり 村の祭事にも親しくお顔を出される

おまけに信仰心篤く いつも熱心に観音さまを拝しておられたという

おかげで荘の民からは ”西殿、西殿” と呼ばれたいそう慕われておったそうじゃ

この西殿・・忠次がある夜夢に観音さまのお姿を見たのだと

観音さまは遠くの方から忠次に向かって何やら語りかけておられるようじゃが声が届かん

驚きながらも その声をなんとか聞こうとする忠次をよそに夢はそこで切れてしもうた

不思議な夢を見たものじゃと 翌朝から首を傾げておった忠次じゃったが・・

その日の晩 またも同じ夢枕に観音さまが現れたのだと

昨夜よりも観音さまは近くに見えるが何を言われておるのかはよくわからぬ

どうも忠次を呼んでいるように聞こえるのだがそれ以外はさっぱり・・

そして そこでまた目が覚めてしもうた

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二晩続いて同じような夢・・ 有り難い観音さまの夢

忠次は矢も盾もたまらず家の祭壇の前で手を合わせ熱心に祈ったそうじゃ

「南無観世音菩薩 その御姿を今一度我が前に現し しかとその御声をお聞かせくだされ・・」

すると その日の晩 再び夢に現れた観音さまはついに忠次の枕元に立たれた

光りに満たされた中で額づく忠次を前に観音さまは申された

「忠次よ そなたは日頃より徳を以てこの地を治めておる 悪しきを遠避け 窮する者を救い 善政の誉れ高い」

「日頃の心持ちもよろしく これに免じて西方浄土をして私自らが そなたの家に入りそなたの一家郎党 井田の地を守ることとした」

「さあ これより浜に出て 私を迎えよ 私は間もなく着く・・・」

とんでもびっくり 忠次は飛び起きると身を清め 家内を起こすと正装を施して急ぎ七里の浜へ駆け出していったそうな

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まだ日も上らず暗い浜辺 砂利を踏みしめながら浜を進む忠次

すると はるか沖の彼方にまばゆいばかりの光が灯り やがて それが段々に忠次の方へと向かって来るではないか

その神々しさに思わず両手を差し伸べた忠次 ついに その光は忠次の手元に辿り着きそっと収まった・・

忠次の手元に静かに佇む観音像 大事に抱えて家に戻った忠次は祭壇にそれを祀り西家と荘の守護としたのだそうな

有り難い話はまたたく間に広がり 在地の者は言うまでもなく遠地から この観音像を参拝に来る者も日毎に増えていったのだと

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時が流れ 忠次が亡くなり井田の荘が穏やかな時も戦乱に触れる時も この信心は受け継がれていった
忠次の時代から四百数十年経った江戸時代にあって西家も繋がれておったそうな

安泰の世 子孫 西忠三郎 の代に至っては もはや屋敷内における参拝が人出の多さで難しくなった

村人たちは寄り合い話し合うて供出し 丘の上にお堂を立ててそこに観音さまをお祀りしたのだと

今日も熊野の海を見晴らす丘の上から 観音さまは静かに我らを見守っておられるのじゃ

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地元ではお盆前の8月9日を「観音さま」と呼び、先祖供養の祭礼として伝承されたそうです。 捻りの少ない実直なお話は大洋に向かう浜のような素直さを感じさせますが、話内に登場する ”光る観音さま” は、前編・相差町の観音さまと似ていますね・・。

三重県の南部、古来 熊野であった地の正に両端の地において「光る観音像が海からやって来る」というモチーフを用いながら、異なる話が成立していることは ”昔話” に多く見られる多様性の一例であるとともに、非常に興味深いところでもあります。

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熊野は古来より自然崇拝に端を発する山岳信仰の修験地であり、神道そして仏教が渾然一体となって鎮まる場所でありました。 都をはじめとした他の地域の人々にとっては、聖なる土地であるとともに ある意味 未知の領域さえ包含した特別な神域でもあったのです。

宇多法皇を皮切りに多くの皇族・貴族が、その思いを深め叶えるために足繁く行幸を重ねましたし、江戸時代には ”伊勢参り” に比するほど一般庶民による ”熊野詣” も盛んになりました。

明治政府による神仏分離令・廃仏毀釈の影響によって大きく衰退しましたが、反面それ故に開発と過度の観光地化から免れ、本来の自然豊かな環境が残されたと言えるのかもしれません。

結果的に平成16年(2004年)「熊野古道」の世界遺産登録に繋がると同時に、開発が進んでいた ”紀伊路” が認定から外されたことも それを物語っているように思えます。

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紀伊半島の南部、紀南から伊勢に通ずる道路網は近年 整備延伸が進んでいるものの開発の進んだ地域とは言えません。

改良され生活に便利な環境になるのが望ましいのは言うまでもありませんが、その土地が本来持っていた環境や風土が失われてゆく二律背反の状況でもあります。

過去を大切にしながらも 未来を構築してゆくことは、これからも私達が模索し続けなければならない命題なのかも知れませんね・・。

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