窮乏と節約が生んだ味は市民の誇りとなった – 広島県

昭和20年8月6日、山陽地方の一大中核都市 広島の運命を変える出来事が起こりました。 比するものも無き、この世で最も使われるべきでない狂気の破壊兵器が使われたのです。

たった一発の爆弾で、爆心地を中心とした数百メートルの地域が一瞬の内に焼灼され、数千の命が何かを思う間もなく蒸発ともいえる惨状で焼き払われました。
続く衝撃波と爆風 そして猛烈な熱波で広島市の大半が壊滅、正に地獄の様相の中で数万の命が失われ、その数は投下後わずか数ヶ月で15万人にも上りました。

直接及び残存放射能による被爆死亡者を含め 現在に至るまで30万を数える被害者を出したこの “人類の罪過” は、そしてこの広島だけでなく長崎にも降りかかり こちらでも同様の非業を生み出したことも御承知のとおりです。

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嗚呼 こういった文章は “真実” でありながらも書いていて気が滅入ってきますね・・。
“二度と繰り返してはならない” とは よく聞かれる言葉ですが・・、こればかりは本当に繰り返してほしくないと切に願うばかりです。

・・で、何を言いたかったのかというと、この災禍の数日後 日本はようやく敗北を受け入れて終戦となるわけですが、これに至るまで上層部があまりに長く敗戦を認めなかったため、広島・長崎そして沖縄の惨劇を含め国内の多くが爆撃や砲撃により破壊されて社会機能の大半を失っていました。

生産能力を失い流通もまともに機能せず、経済基盤も根底から打撃を受けたとなると、直接 の爆撃被害を受けていない地方農村・漁村においても深刻な影響を被ることになります。

元より食糧自給率のおぼつかなかった中での終戦となり、平穏が訪れても国内全土にわたって甚大な食糧難が覆ってしまい、その解消には10年近くの歳月を要したのです。

数え切れない餓死者や栄養失調者を出しながら慢性的な空腹を抱えた時代、この広島そして長崎は被爆災害の爪跡からとりわけ復興までの時間が掛かり、他の都市に比べても特に食糧事情に窮した町であったと言われています。

画像引用 Wikipedia 他

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栄養どころか口に入れるものにさえ事欠く日々、やがて政府の配給や米軍による物資の供給によって少しずつ緩和されてゆきますが、それでも腹満たすには程遠かったようで、それを補うために、人々は闇米をはじめヒエやアワ、芋のつるや野草などあらゆるものを食材として用いたのだとか・・。

多少なりとも流通量が回復しても米の安定供給にはまだ至らなかった時代、米の代用のごとく多用されたものが “小麦” でした。

国内でも比較的 供給がつながれ、また、アメリカから大規模に輸入された小麦は徐々に社会に流通してゆき、”メリケン粉” は人々の糊口を凌ぐ大事な糧とされたのです。

まだまだ腹一杯の食事にはありつけず、そして栄養価も足りなかった時、麦の粉(小麦粉)を水に溶いて鉄板に流し広げ焼き上げる、いわゆる “お好み焼き” のようなものを作り腹の足しとしていました。

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戦前から当時 “一銭洋食” と呼ばれる屋台菓子が売られていました。子供向けの焼き菓子が時代の求めに応じて 今度は国民の飢えを凌ぐ代用食のひとつとなったのです。

この手法と傾向は全国で見られたものでしたが、上記のごとく食糧事情の改善が遅れた広島では小麦の貴重性も未だ低くなかったようで、結果、水に対する小麦粉の量も節約せざるを得ず、鉄板に流しても薄く伸び広がり、今でいうクレープの生地のような状態となりました。

“皮” になけなしのネギや当時供給が届き始めたキャベツを具にして焼き上げられ、時の進行とともに焼きソバなどの具も加えられ、人々の口とお腹を満たしました。

今日、美食家をも唸らせる「広島焼き / 広島風お好み焼き」*は、極限とも言える窮状から生まれ、節制と創意工夫そして不屈の精神で再興の道を歩み続ける中で育まれて、いつしか広島を代表するソウルフードとなったのです。

* 「広島焼き」という名称は一般的に広島以外で普及している呼称であり、広島県においては基本的に「お好み焼き」です。

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お好み焼きのルーツは一説にその起源を、安土桃山時代の茶の湯に出された茶菓子に求められるとされ、「麩の焼き(ふのやき)」と呼ばれるそれは、水に少量の酒を足したものに小麦粉を混ぜて練り込み、薄めに焼いて味噌を塗り巻き込んだ一口二口サイズのものだったようで、正にお菓子の一種と言えるでしょうか・・茶聖・千利休の考案だったとも伝わります。

小麦粉と水を用いて造られる粉物は「煎餅」(せんびん、米を使ったせんべいとは別物)をはじめとして古くからありましたが、その応用性の高さからか「麩の焼き」以降も様々な進化と分化を重ねながら人々の口に上っていきました。

江戸時代に食されたという、餡を包み込んだ「助惣焼(すけそうやき)」を経て、後に「どら焼き」や「鯛焼き」などの ”菓子” として進化したグループと、「お好み焼き」に代表される ”食事” としての側面が強いグループにそれぞれ開花していったようです。

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普段 お気軽に食べている「お好み焼き」ですが、その背景に数百年にも及ぶ歴史があったこと、そして、戦後 極度に貧しい世相の中で人々の空腹を満たす支えとなったことなどを思い浮かべれば、またひとつ感慨深い味わいに思えてくるかもしれませんね。

 

 

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