国道42号線に沿って紀伊半島を南下すると、県下沿岸 南北の真ん中辺りでしょうか、白亜の石灰岩で知られる “白崎海岸” の由良町、続く御坊市に入る頃から海の景色が変わりはじめ “紀伊水道” ではなく大海の様相を呈してきます。
水の透明性もひときわ増して南国の雰囲気が少しずつ近付き、美浜町煙樹ヶ浜の先にある紀伊日ノ御埼灯台から見る水平線は心なしか曲線を描いて見え、大仰かもしれませんが地球の丸さをあらためて感じる景観です。*
さらに進むと本州最南の市、田辺市、前編でご案内した “南紀” 地方のまさに玄関口にあたり、県下で第二の人口と経済力を持つ県南部の中核都市と言えるでしょうか。
白良浜(しららはま)で知られる “南紀白浜” に隣接し、熊野古道の分岐点 “口熊野” として熊野三山と縁深き地でもあると同時に、伝説の破戒僧にして源義経の家来となった “武蔵坊弁慶” 生誕の地としての伝承も息づいています。
* 20.11.19 追記 現在、紀伊日ノ御埼灯台は2017年の移設以来、アクセスが制限されている場合がありますのでご注意下さい。
本日ご案内しますお話は この田辺の地にまつわるものとされていますが、そこで語られる時代は神代、つまり人もおぼろな 世も薄明の時代の話ゆえ、弁慶はおろか田辺の名さえ有ったか否かわからぬ頃のお話にございます。
ーーー蟻通しの神様ーー
それは日の本においても神々の世の頃
暖かな日差しとおおらかな波が打ち寄せる田辺の浜に ある日 異国の大きな船が着いた
日の本の神々は浜辺に集まり いずこの国から来たものであろうなどと口々に話し合うていたが やがて黒い服を纏った男が幾人もの部下を従えて船を降りてきた
男は辺りを一瞥すると声高にこう言った
「よく聞くが良い 我らはこの世で最も大きくそして強い国からやってきた」
「これから お前たちに ひとつ問いを出す 上手く解ければよし 解けぬ時はこの国を我らが領土とする」
傲慢な態度にすぐにでも追い返してやりたい心持ちではあったが 確かに船は大きくその国も強そうに思えた・・ 神々は応じて
「されば その問いをお聞かせ願おう・・」
黒服の使者はくすりと笑いを噛み殺すと懐から法螺貝(大きな巻貝)を取り出し こう言うたそうな
「この貝の尻(尖った先)に小さな穴がひとつ開いている この穴を通して貝の口まで糸を通してもらおう」
神々を嘲り笑う面持ちでその貝を渡したのだと
さて 受け取った貝を手にしながらも神々は困り果ててしもうた
貝の中は幾重にも螺旋(らせん)に道が渦巻いて どうやっても糸など通せそうもない
このままでは この使者の言うとおり異国の餌食にされてしまうかもしれない
少なくとも多くの犠牲をはらう戦となってしまうだろう
今かまだかと待ち構える使者を向こうに神々は頭を抱えてしもうたが・・
「私が糸を通してご覧にいれましょう」
ひとりの若い神がこう言って前に進み出た
このような若者にこの難問が解けるのであろうか 訝る神々を前に若い神は ひとすくいの蜂蜜を携え それを貝の口へと流し込んだ
蜜は巻貝の螺旋を伝ってやがて貝尻の穴から滴り落ちる
次に若い神は一匹の蟻を手にすると それに糸を結わえ貝の口に追い立てた
蟻は蜜を辿り螺旋を進むとついに貝尻の穴から糸を引きずって出てきたのだ
まわりの神々は驚き顔を輝かせて喜んだのは言うまでもない
一方 黒服の使者は先程までの勢いも消え失せておった
「このような難問を目の前でいともたやすく問いてしまうとは・・ やはり この国は神の国であったか・・」
つぶやき終えると 這々の体で供を従え国へと逃げ帰ってしもうたのだと
神々はこの若い神の知恵と行いを褒め称え 以後 この神を ”蟻通しの神” と呼んだそうな
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強き力を持つ者が傲慢に溺れ、弱き立場の者に無理を押し付けようとする構図は今も昔も変わらぬもののようです。
ともあれ、知恵と発想の転換によって大難をかわした若い神 ”蟻通しの神” は知恵の神様として伝えられ、現在も田辺市湊(みなと)に「蟻通神社」が鎮まっています。
ところで、この「蟻通神社」ですが、その名に関して少々興味深いところがあります。
今回の舞台となる田辺市の他に「蟻通神社」の名を称する社は、前回ご案内した高野山の麓、和歌山県かつらぎ町に一社、和歌山県から和泉山脈を越えて大阪側の泉佐野市に一社、そして奈良県東吉野村に過去そう名乗っていた一社が存在します。
ところが、これらの四社はその社名にも関わらず 明確に ”蟻通しの神” を祀っている社は一社も存在しません。
主祭神で申すならば、田辺市=天児屋根命 かつらぎ町=思兼命 泉佐野市=大国主命 そして奈良東吉野=罔象女神 となっています。 おそらく天児屋根命と思兼命(時に同一視される)は知恵の神でもあることから ”蟻通し説話” になぞらえて治定されているのでしょう。
泉佐野市の蟻通神社では大国主命・蟻通明神と表記されており、本殿に大国主命、境内社に “知恵神社” をもって “蟻通明神の分霊” が祀られているようです。
この蟻通明神について趣深いお話が残っています。
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「土佐日記」で知られる紀貫之が都を下り住吉の大社、紀の国の玉津島神社に詣でた その帰り道、泉州日根野の地を通りかかったところ・・
それまで薄曇りであった空が俄に日を隠し辺りは暗く閉ざされ雨も降り出した
のみならず、何故か馬もその場に留まり一歩も先に進まなくなってしまう
難儀していたところへ霞の奥からいでました老爺に事の次第を打ち明けると、ここは蟻通明神の神域なれば、馬上のままに通行しようとしたのが災い、明神への慰めに和歌を手向ければ障りも解けよう と教えられる
知らぬこととはいえ、失礼に及んだことを恥じながらも、貫之は老爺の進言に借りて一首を詠んだ
「かきくもり あやめも知らぬ大空に ありとほしをば 思ふべしやは」
(一面に曇った空に星を見つけられないのと同じように この地に蟻通しの社があるとは気づかないでしょう 蟻通しの神ならば無理な仕打ちをなされますまい)
これを傍らで聞いていた老翁は とても面白く何より屈託なき心に満ちていると褒めそやし、その想い必ずや蟻通しの神に届いたであろうと言いながら また霞の中に消えてしまう
ついぞ、あの老翁こそが蟻通しの神であったかと貫之が気づいた時、馬は立ち、雨は上がり雲は散り、明るい日差しが戻った
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馬上の通行を咎めたというよりも、歌の名人に束の間 厄介をかけて歌を楽しもうとしたかのようにも見える、不思議で それでいて面白いお話ですね。 このお話は後に “能” の演目にも取り上げられ「蟻通」として今日に伝わっています。
しかし、ここでも蟻通しの神がどういった神なのかには具体的に触れられてはいません。
知恵の神、教養に寄り添う神 とされながらも判然としない謎とさえ思える蟻通しの神・・
その実態に触れることは叶いませんが、ひとつだけ挙げるとするならば これら “蟻通神社” のほぼ全てが、大阪を含む紀伊半島の熊野街道の何処かに位置しているということです。
・ 上記の泉佐野 蟻通神社は大阪 渡辺津(現在の天神橋周辺)から紀の国に至る「紀伊路」に
・ 田辺市 蟻通神社は「紀伊路」「中辺路」「大辺路」を繋ぐ「口熊野」に
・ かつらぎ町の蟻通神社は「小辺路」に繋がる「高野山石道」の近くに
・ かつて蟻通明神と呼ばれた丹生川上神社(中社)は大峰山を越えて熊野へ続く「大峯奥駈道」に
つまり、古の熊野信仰、熊野詣に関連していたものではないかとの推察が成り立つかもしれないのです。
あくまで 一節ですが往時の熊野詣は相当に賑わっていて、参詣に向かう人の列が蟻の行列のように見え、その参詣者の交通の安全を見守る神格との推察もあります。
古き時代にその土地ごとに生まれ人々の心の拠り所となった様々な神々・・
今では ほぼ完全に失われた神もあり、祀られながらも神格の不鮮明な神もあり・・
不思議でいて深遠なる古代の神々だからこそ、現代の私たちの興味とロマンを掻き立てるのかもしれませんね。