紀の国北と南 寺と社に連なる二つのお話(前)- 和歌山県

和歌山県は南北に長く東西にも平均して厚みがあり、20〜30年程前までは交通の便もあまり良くなかった所為もあって、通過するルートによっては ”県を通過するだけで半日~一日掛かり” と言われた程でした。 しかし、近年では・・

大阪府松原から和歌山市をつなぎ南を目指す阪和自動車道とそれに連なる海南・湯浅御坊道路、延伸・連絡された紀勢自動車道によって南北縦断は飛躍的に短縮されましたし、県北部 和歌山市〜奈良五條間をつないで開通した京阪奈自動車道も然り。

県内での長距離移動も時間も掛かからず楽になりました。 只、自動車専用道の発達により、それまでの旧街道沿いの賑わいが廃れてしまったのは “便利” と引き換えに大切な何かを失ってしまう時代の矛盾なのかもしれません・・

 

こうして 少なくとも利便性においては効率化が進む地方の様相ですが、これは地域による文化や風土の差についても影響を与えているようで、ひとつの県内にあっても一定に区切られて認識されていた文化圏の特色を薄めつつあるようです。

和歌山県においては 南北に長い地形も手伝って、古来より 紀北、紀南(南紀)と分けて その文化圏が形成されてきました。(紀中を含めて3分する場合もあり)

大阪や奈良の文化に近く 古くは聖地 高野山の影響も色濃い紀北地方と、三重県南部 伊勢につながり熊野三山を抱く紀南地方は、昭和の頃までは慶弔催事のしきたりから方言・イントネーションに至るまで結構な差異があったものです。

現在では平均化され過去のものとなりつつある分けられた地域性、今回は和歌山県 紀北、紀南から それぞれに残された民話を前後編一話ずつご紹介したいと思います。

 

高野山は言わずと知れた弘法大師開山の聖地、平安開朝間もない816年、嵯峨天皇により勅許され真言密教修禅の本拠として開かれました。

大師によって緒に就いた開山の志は多くの信望・協賛者を集めて発展し、やがて金剛峯寺をはじめとした幾多の伽藍を連ねる 一大仏教都市として隆盛してゆきますが、そこは所詮 人のすること、数十数百の時を数える内には次第に謙虚であった初志を忘れることもあるのでしょうか・・

ーーー 毛原のメウガ ーー

ある時、近隣の村に対して次のようなお触れを出してきたそうな・・

〜此度 金堂大伽藍 建立につき 村より百人の人力にて出仕すべし〜

毛原の村の者は集まり このお触れを前に頭を抱えたわ

「困った話やのう・・ いくら有り難いお山のお触れやというて百人もの男を出してしもうた日には村の仕事が回らんようになってしまう」

「そやけど お山の頼みを断ってバチや祟りがあってもかなわん」

「ここんところ また戦やの何やの きな臭い話も絶えんしのお」

皆であれこれ話しおうても一向に埒も開かん

その時 遅れてやって来た一人の男が声を上げた

「皆の衆 ワシが一人で行ってくるわよ」

皆が振り返ると そこにおったのは村一番の大男 そして近在で比べるもののない力持ちメウガやった

「おぉ メウガか 確かにお前やったら人並み外れた仕事をするじゃろうが・・」
「そやけど百人出せと言うとるところに一人で行ったら何を言われるか・・」

口々に心配する村人たちを前にメウガは気にも留めず

「なぁに 心配いらんて ほなまぁ行って来るわ」と さっさと旅立ってしもうたんやと

 

さて 高野の寺領に着いたメウガやったが案の定 役僧のところで咎められた

「百人で来いと伝えておるのに たった一人で来るとは何事か!」

荒がるお叱りを前にメウガ 素知らぬ顔で

「一人でも百人分の仕事をするけぇ問題なかろうが」

呆気にとられる僧たちを後にずいずいと宿坊に入って行ったと・・

言に偽りなし 次の日からメウガは誠 百人分の仕事をこなしはじめた

何人も掛かって運ぶ荷物を一人でいくつも抱え運び 重い材木をまるで尺棒のように扱ったと

百人の人力どころか 宮大工の切り出しも間に合わなくなるほどに建立ははかどり 見る間に大伽藍は組み上がっていったそうな

仕口の最後 伽藍の箱棟を上げたときやった

本来ならやって来た人足をあごで使役していたであろう大工の棟梁
働き過ぎるメウガに逆に追い立てられるかのごとき様を腹に据えかねておったのやろう

「メウガ! それでは箱棟の前後ろが逆じゃろうが! 早う直さんか!」

逆ではないのにメウガを困らせようと嘘をついたそうな

ところがメウガは「あぁそうかい そりゃぁすまなんだ」と ひょいと引き抜き持ち上げると くるりと向きを変え また載せなおしてしもうたのだと

困ったのは棟梁や 今更 嘘じゃとも言えず後の直しにえろう難儀したそうな

 

さても金堂伽藍は出来上がり 建立に関わった者皆 山を去る日がきた

寺では出仕に出た者を労うため土産に味噌を持たせておったのだが メウガの番になると一人の分しか出してこん

「何で一人分なんや 百人分働いたんやから百人分出してくれ」
「出してくれん言うなら 九十九人分 建物を元に戻すわ」と言うたのだと

メウガなら本当にやりかねん 寺側は渋々百人分を出したそうな

百人分の味噌を背負うてメウガは毛原の村に戻り それを皆にわけてやったのだと・・

ーーーーーー

 

まあ、何というか、現在なら事によってはクレーマーと言われそうな程の無頼ぶりですが、実際 百人分の仕事をこなしたのですから誹りを受ける謂れはないでしょうね。

メウガとは珍しい名前ですが、茗荷のことでしょうか? お釈迦様の弟子にそう伝わる方がおられたと思いますが、無関係かどうか詳細はわかりませんでした。

 

それにつけても寺側の懐の小ささですが、実際問題、大密教の聖地と言えどそこに仕えているのは人間であり、全てが聖人君子という訳にもいかないので様々な都合やしがらみが生じてくるのも、やむを得ないことなのかもしれません。

いわんや、組織が巨大化し民衆に与える影響も大きくなってくると、行政的にも経済的にも為政者側からも無視出来ない存在となってしまい、防衛や駆け引きのために武力を有し その維持のためにさらに経済性を優先する様は、最早 地域の枠を超えて “国” そのものの姿にも似てきます。

高野山のみならず、天台宗比叡山、浄土真宗本願寺、いずれもその巨大さ、そして影響力ゆえに数奇な運命を辿ったのです。

2500年前に北インドの地に生誕し、以降今日に至るまで光なすお釈迦様の教えは深遠無限ながらも この世の有様を説いた因果応報、そしてその中でも目に見え感じることに心惑わせず屈託なく生きよ というシンプルなものでしたが(超意訳です)

地を越え時を超えて伝わる間に様々な変容を含みながらも次の時代へと受け継がれてゆきます。 開祖・宗祖の崇高な理念を受け継ぎ広めながらも 世の色に染まってゆくのは、それこそ因果応報、人の想いによるからなればこそ・・なのかもしれません。

次回、紀南 田辺の地に残る伝承からお伝え致します。

 

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