木津川 まほろばの古都に眠る記憶を訪ねて – 京都府

京都府の南端、木津川市、奈良県との県境を接し のどかな風景広がる山間の町であり、京都の内にあって都からはやや距離をおくため、一見 歴史的にはあまり目立たない場所のようにも思えますが、意外やこの地は古来より多くの歴史の足跡が残り 往古に通ずるいわくの風が今も尚色濃く遺る場所でもあるのです。

 

聖武天皇の都

何よりも先ず、ここは奈良時代、”聖武天皇(しょうむてんのう)” によって 恭仁京(くにきょう)と呼ばれた都が置かれた地でもありました。

恭仁京、正式には大養徳恭仁大宮(やまとのくにおおみや)といい、740年の暮れから742年までのわずか3年余りの華ではありましたが、ここに都を定めている間に「国分寺」建立の令 や「墾田永年私財法」の制定、そして 奈良大仏の造立を発せられました。

学生時代に習う “歴史” の授業では大まかな要点を中心に進めることもあり、平城京(奈良)の次は平安京(京都)というイメージが先行しがちですが、聖武天皇が740年に平城京を後にしてから794年平安京を定めるまでに6回の遷都を挟んでいます。

平城京(奈良)→ 恭仁京(京都 / 740年)→ 難波京(大阪)→ 柴香楽宮(滋賀)→ 平城京(奈良 / 745年)→ 小墾田京(奈良)→ 長岡京(京都)→ 平安京(京都 / 794年)

この内、赤字部分が 聖武天皇による遷都であり、わずか5年程の間に4回もの遷都を繰り返した挙げ句 再び平城京に戻ってきており、この不可解な行動の真意は今もって謎となっているのですが・・

幼くして父 文武天皇を亡くした聖武天皇は 微妙で複雑な立場を越えて724年即位を果たしましたが、その治世、天平の時代は旱魃や疫病(天然痘)の蔓延に悩まされた時代でもあり、大半の官人を病害で失う事態にも見舞われています。

疲弊する国力と苦しむ人民に心を痛めていた天皇に 追い打ちをかけるように届いた知らせは、太宰府に赴任していた藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)による反乱の報・・

結果的にこの反乱は鎮圧されたものの、度重なる不幸に憔悴しきっていたのでしょうか、これ以降 天皇は新天地による国家の運気向上と 仏教への帰依をもって平穏の模索をしていたように思えます。

「人民の苦しみの責めはすべて我一人にあり」と言われていたとされる聖武天皇、重ねた遷都や大仏造立事業によって財政は傾き、その行動はひとえに刹那的とも見えますが、難しい生い立ちゆえに繊細で気遣いの深い方だったのかもしれませんね。

 

以仁王の夢

さて、もう一人 木津川の地を舞台とした歴史物語で縁深い方といえば、聖武天皇から400年程後 平安時代も終焉を迎えようとする頃、日の本を分けた大合戦、治承・寿永の乱(いわゆる源平の合戦)の端緒を開いたとされる 悲劇の皇族 “以仁王(もちひとおう)” でしょうか・・

後白河天皇の御子として生を受け、幼い頃より天台の教示に触れ 学問・教養とも類まれなき才覚を持ちながらも、時の権力者 平氏の策謀・圧迫を受け、帝位に就けなかったどころか 親王宣下(皇族の一員として正式に認められること)さえ施されなかったといいます。

「平氏にあらずんば・・」と後世に語り継がれるほど権勢を欲しいままにした平家一門でしたが、その傍若無人ぶりは尽きることなく、1179年 ついに平清盛は後白河上皇の幽閉、反平氏勢力の一掃という暴挙(事実上のクーデター)に出ます。

この流れの中で 以仁王もその所領を没収される憂き目に遭い、ここに至りついに “打倒平氏” の決意をなし、全国に伏す源氏の各勢力 そして 反平氏派の寺社に対して秘密裏に連合決起を呼びかけたのでした。

平氏に対する不満は 朝廷内をはじめ国内に横溢しており、以仁王の決起の報は瞬く間に知れ渡りましたが、しかし、ここでひとつ問題が有ったのです。

“平氏追討の令旨” という形で出された この御布令でしたが、”令旨(りょうじ)” とは本来 皇族によって出されるもの、親王宣下されていない以仁王には発令不可のものでした。

加えて以仁王が自らを “最勝親王” と名乗っていたため、その真意の解釈に反平氏勢力の足並みが乱れ、時を移すうちに計画が平氏の知るところとなってしまいます。

たちどころに形勢不利となった以仁王は辛くも平氏の襲撃を逃れますが、時すでに遅く、滋賀大津の園城寺、京都の宇治平等院、そして山城国相楽郡(現在の木津川市)光明山付近まで落ち延びたものの、そこで力尽き 討ち取られることとなりました。

 

こうして、平氏追討の夢は破れ、不遇のままにその人生を終えた以仁王でありましたが・・、 彼の呼びかけに応じ動き出した東国の源氏勢力とその支持層、これに危機感を抱いた平氏が一方的に武力で弾圧しようとしたため、源氏 対 平氏 の対決は避けられないものとなり、時を置かずして以後6年に及ぶ大規模内乱 治承・寿永の乱 へとなだれ込んでいったのでした。

自らの手では成し得なかったものの、平氏一強による専横に異を唱え、結果的にその滅亡にまで至る大戦を引き出す口火となった以仁王、非業な最後とはなったものの その思いの一端は果たせたのではないでしょうか・・。

以仁王は 終焉の地となった木津川市山城町の高倉神社に今も静かに祀られています。

 

木津川観光協会では その幽玄な風土と歴史を生かした地域性のアピールを続けており、その一環としてウォーク・オリエンテーリング形式の “謎解きイベント” を例年開催しています。

毎回、木津川にひっそりと息づく歴史や伝承を題材に指定のポイントを巡り歩き、設けられた謎を解いてゆくゲーム感覚のハイキングとでも言えるでしょうか。

今年のお題は「当尾(とうの) 謎解き石仏めぐり ~とある石工の不思議な記憶」
~あなたは鎌倉時代のとある石工とともに先祖の記憶をたどる旅にでる~

クリックでPDFファイルへリンクします

山道の石仏にどんな謎が隠されているのか? 石工の不思議な記憶なんて 何故かすごくミステリアスでファンタジーな印象を抱くのですが、その詳細は参加してみるまで一切不明です。

イベントは 当尾の岩船寺で参加キットを買い、その案内に従って浄瑠璃寺までの約2kmのコースを途中途中にある石仏を訪ねながら行われます。 静かな山道を約2~3時間の目安で辿る道程なので ご家族連でも無理なく参加出来るのではないでしょうか。

比較的 涼やかな場所とは言え、夏の盛りも過ぎつつある中でも まだまだ残暑が懸念されますので、帽子や服装・歩きやすい靴などにご注意の上お出掛けください。

 

京都の南端、平城の都にも程近い木津川の地、時のメインストリームから離れた山間の場所に眠る歴史を散策する旅、この夏から秋にかけての思い出に如何でしょうか。

 

※ ご承知のとおり 現在 コロナウイルス感染症問題に関連して、各地の行楽地・アミューズメント施設などでは その対策を実施中です。 それらの場所へお出かけの際は事前の体調管理・マスクや消毒対策の準備を整えられた上、各施設の対策にご協力の程お願い致します。 また これらの諸問題から施設の休館やイベントの中止なども予想されますので、お出掛け直前のご確認をお勧め申し上げます。

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.リアル謎解きゲーム2020 「当尾謎解き石仏めぐり ~とある石工の不思議な記憶~」

. 木津川市イベント案内
. 木津川市観光ガイド / 木津川市観光協会

日  程 : 2020年8月1日(土)~11月30日(月)

場  所 : 京都府 木津川市 当尾地区

料  金 : 1200円(キット代込み ペア割・グループ割あり)

備  考 : 制限時間はありませんが、17時までにゴールするようにして下さい

問い合わせ : TEL.0774-39-8191 木津川市観光協会

 

 

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