後に大権現とも称された 家康によって開かれた幕府と江戸の町、100年余りにわたって続いた戦の世が終わりを告げ ようやく安寧の時代が到来したのです。
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伝馬町は当時の江戸において屈指の商業地でありましたが、その端緒であった伝馬役名主の筆頭は 佐久間善八と “勘解由” の職性を持っていた馬込平左衛門でした。
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今話の登場人物でもある佐久間家はどのような成り行きか この話の後大きかった身代をたたみ郷里に引き揚げてしまうのですが、この佐久間家と馬込家は日頃から親交深く婚姻関係も持っていたため、佐久間家帰郷の後 多くの奉公人は馬込家へと移ったようです。
しかし、お竹さんはというと・・
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ともあれ 前編の続き、佐久間善八からお竹の逸話を聞かされた行者は・・
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善八の話しを聞いていた行者はしばらく黙って腕を組んでいたが・・
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「ご主人 如何でしょう お竹殿にひと目会わせては もらえまいか・・」
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心得ましたと行者を連れ立ち勝手場に向こうた善八であったが、その入口の端に立ち “あの娘です” と指し示さぬうちに行者の方が先に口を開いたそうな
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「おぉ! あの娘子 いや あの御仁が お竹殿か!」
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よく お解りになりましたね と驚く善八に行者
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「確かに間違いない あの御仁から溢れる光明はまさに大日如来の後光に他ならん!」
「ありがたき 御姿 ありがたき世の光じゃ・・」
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一心に感謝し念を込める修験僧、そして改めてお竹の徳に感じ入る善八
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この話は ほどなく広く市中の知るところとなり、お竹の善行とそれにも増して心根の高さに感動した人々の指標ともなったのだそうです。
常日頃から笑顔と誠実を欠かさない お竹さんの人となりは近隣にも知られていたところに この後光差す逸話、与えられるものに感謝し、人の縁に誠意を尽くすその生き様は市中の人々にまさに如来の姿を見せたのかもしれません。
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この後、善八の計らいにより お竹さんは下女としての勤めを離れ 衆生の幸せを祈る仏道の生活へと移ったとも伝わります。
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時が流れ お竹さんが亡くなると 善八夫婦はお竹等身大の如来像を造らせ、お竹さんの故郷 出羽は 羽黒山正善院黄金堂 に納め その供養を成しました。
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また お竹さんが使っていたといわれる流し板は 佐久間家の菩提寺でもあった芝 増上寺心光院に奉納され、既に信仰の対象となっていた「於竹如来」の依代ともなったのです。
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「この流し板にお祈りすれば 良い女中を迎えられる」
「あ.らゆる女性の願いを聞き届けてくれる」
様々なご利益が巷間に上りましたが、そこには単に善行を積んだというだけではなく、自らの置かれた立場の中でめぐり合う 全ての物事に感謝と誠意を貫いた お竹さんへの崇敬の想いがあったのでしょう。
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まったくもって努力と誠実、倹約と信心の鑑のようなお話、合理的な現代はともかく昔から日本人の美徳として認識されてきた観念です。 前編でも触れましたが お竹さんはおよそ寛永年間(諸説あり)を生きた女性であったようで、実在の人物であったからこそ、 より その話題性や後に続く伝承への基となったのかもしれませんね。
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お竹さん以外にも多くの奉公人を抱えていた佐久間家でしたが、その中には “不織布” で有名な「小津産業株式会社」の創始者、小津屋清左衛門 の名を見ることも出来、一説には お竹さんと同時期の奉公であったのではないかと言われています。
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和紙の商家から現代の最先端メディカル企業へと発展を遂げてきた「小津産業」の本社本館の一角には「於竹大日如来井戸跡」という史跡が保存されており、小津家では永く於竹大日如来の像が拝されてきた経緯から見ても、当時の清左衛門 とお竹さんのつながりに篤いものを感じます。
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ところで、このお話には多少なりとも その下地となる背景がありまして・・
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大都市である江戸には当然ながら全国から多くの商人が出入りし、中には江戸に根を下ろし大店となった店も少なくないのですが、今回の舞台となった伝馬町一帯はその多くを伊勢国(三重県)出身の商家が占めていました。 徳川家康について江戸入りした伝馬役が伊勢国出身であったことに関係しています。
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江戸で開花し大店となった伊勢商人の風土・性格が「質素、倹約、地道」
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これに対して元々の江戸庶民が「宵越しの金は持たない」「粋」の気風
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物は売れ 商売は成功しても、こういった感覚の違いは何かと無用の摩擦を生む土壌となってしまいます。
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そのような時に現れた “人と物に感謝と大事の念を忘れず、徳を積み重ねる” お竹さんの存在。 つまるところ、お竹さんの誠実の逸話は、性向・価値観の異なる二者間の齟齬を薄め摺り合わせる役目をも持っていたと言えるでしょうか。
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とは申せ、何かの目的のために意図的に創り出されたヒロイン像であれば、たとえ一時的な効果は現れたにせよ、いずれ忘却の彼方へと消え去っていたでしょう。
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増上寺心光院に対する遺品の流し板奉納に関わったのは、5代将軍 徳川綱吉の生母、桂昌院(けいしょういん・3代将軍 徳川家光の側室でもある)であったとも言われています。
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数多の尊敬を集めるにとどまらず、逸話を生み、如来の名をもって信仰と伝承の対象にまで至ったのは、お竹さんそのもの、そして彼女の生き方そのものに、人々の行くべき先を指し示す後光のごとき輝きがあったからに他ならないでしょう。
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高い演壇から聞く結構なお話しも良いかもしれませんが、人の心を本当に掴んで離さないのは、誠意に裏付けられた実直な生き様、普段の生活の場からこそ溢れ出るものなのです。