毛の国に残る地名色々よもやま話(前)- 栃木県


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『 毛の国 』何やら頭髪を思い起こさせるような国名ですが(一説にはそのような話もありますが・・)その毛ではありません。
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千数百年の昔、ヤマト王権が機内を中心に勢力を固め その影響を全国に及ぼしつつあった頃、北関東、現在の群馬県と栃木県の南部を占めた地域に存在していた一大勢力の圏域を「毛の国」と呼んでいたのだそうです。
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群馬県側を(機内に近い上方)「上毛国・かみつけのくに」栃木県側を(遠い下方)「下毛国・しもつけのくに」と著しており、これが後に”毛” の部分が”野” に改められ「上野国・こうずけのくに」「下野国・しもつけのくに」となりました。
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”毛” の文字が充てられた由来については諸説ありますが、

・ ”御食”(ミケ・古語で食料や穀倉の意)豊かな穀倉地帯であったことからミケの国とされ、それが転じたもの

・ ”毛” にはもともと精力溢れる勇猛な意味が有り、当時この一帯を統べていた民族を表したもの

・ 第10代崇神天皇の皇子である豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)が父王の命によって この地を治定し、豊城入彦命の血筋である紀伊国(きのくに)からの人材が多く移住したので ”きのくに” から転じたもの
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などが言われていますが、現時点、確説を得てはいません。
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今日はこの内『 下野国 』に今もなおその名残を残す面白い地名を豊かな民話・伝承に照らし合わせながらご紹介したいと思います。

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『 逆木・さかぎ 』
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栃木県の中央を縫うように流れる「鬼怒川」(この鬼怒川も往古には毛野川・けぬがわ であったそうです)長大な河川において古にはよくあったことですが、この鬼怒川も往時は大雨による氾濫を繰り返したそうです。
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さても今は昔のある日
宇都宮のと小倉村に住む婆様は その夜不思議な夢をみたそうな
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暗闇の向こうに神々しい光が立っている
それは婆様が日頃から熱心に拝んでおる宇都宮の明神様
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そのまわりには白装束に身を固めた神官が幾重にも取り囲み
何やら重々しげに相談をしておった
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「さて 近々起こるであろう大洪水 我が民草(住民)を救うには何とせん」
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「お恐れながら 地異起こうるは天地の御心なれば我らには如何ともし難し」
「されど 羽黒山に立つ大銀杏を倒し小倉の川筋に渡せば押し寄せる水勢を減ずることは叶いましょうか」
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「なれば 羽黒山の神に急ぎ遣いを送り 大銀杏を倒す許しを請わん」
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厳かにそして切羽詰まった様子で進められる合議
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翌朝 夢から醒めた婆様はこのことを村の衆に触れ回った
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しかし 折からの日照り続き 到底 川が切れそうな気配など微塵もない
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皆 婆様の信心疲れじゃろうと笑うておったのだそうな
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ところが そうこう言うておる内の八月七日
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降り出した雨は雨足を強めるばかりで三日経っても四日経っても止む気配がない
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そして五日目の昼過ぎ ついに上の五十里沼の堤が破れ 怒涛の如き水勢が下の村へと押し寄せた
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その時 羽黒山の大銀杏がメキメキと根本から折れたかと思うと濁流をせき止めようとするかの如く川に倒れ込んだのだと
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それどころか 宇都宮明神に立っておった何本もの杉の老木が轟音とともに根本から浮き出し 宙を舞いながら逆巻く水勢の所まで来ると大銀杏を支えるように頭から突き刺さっていったのだそうな
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おかげで小倉の村は大きな被害を出さずに済んだ
婆様の話を今さらながらに思い出した村の衆は 明神様のご神徳にひれ伏し
木々が波を堰きはらった辺りを「逆木」と呼んだそうな
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現在、この地は 宇都宮市上小倉町 となり逆木の名は慣習的に残っていますが、往古より度々水難に見舞われた地であることに間違いはなく、同地には明治時代に行われた大治水工事の結晶「逆木洞門」が その役を解かれた今も鬼怒川の流れを静かに見守っています。

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『 逆面・さかづら 』
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”逆” 続きですが、こちらのお話は少々単純で短いお話です。
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弓削道鏡(ゆげのどうきょう)この名を聞いてすぐに思い出されれる方は歴史好きかもしれませんね。 日本の皇歴において大きな事件を引き起こしたと言われる人物ですが、一般的な歴史認識の中ではそれほどメジャーではないかもしれません。
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史上6人目の女性天皇となった孝謙天皇が病を得た時にこれを快癒し天皇から絶大な信頼を勝ち得た僧侶です。
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弓削の名からも解るようにその出自は物部氏にもつながる士族の血筋でしたが、幼くして仏道に入ったため あくまで一介の僧侶でしかありませんでした。 しかし、天皇の寵愛を受けて以降 急速に政に関わるようになり、その発言力は日増しに覇を高めることとなってゆきます。
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朝廷内における道鏡のふるまいに多くの士族官人たちは異を唱えましたが、聞く耳を持たぬ天皇の前にあって事を正すのは容易ではありませんでした。
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そのような中、神護景雲3年(769年)後に「宇佐八幡宮神託事件」と呼ばれる一大事件が起こります。 当時、朝廷に大きな影響力を持っていた宇佐八幡宮の神が「道鏡を次の皇位に就かせれば天下は太平なり」との神託を下したと報告されたのです。
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宮中は蜂の巣をつついたような騒ぎとなりました。皇族でない者が皇位を継ぐなどおよそ考えられないことだったからです。 この神託が本当なのか確認のための使者を八幡宮へ遣わせる事態となり、結果的にこの神託と道鏡の皇位継承は退けられました。
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皇室を揺るがす大事件の翌年、孝謙天皇(この時は重祚して称徳天皇)が没すると事態は一変、道鏡は下野国へと配流、都から遠ざけられることとなりました。
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「宇佐八幡宮神託事件」には首謀者の件など不明瞭な部分もあり、伝えられる全てが真実とも限りませんが、弓削道鏡 が僧籍ながら宮中で専横をふるい 多くの反感を買っていたのは事実のようで、結果的にみじめな晩年を自ら招いてしまいました。 何事によらず人はその身の弁えを知るべしと言ったところでしょうかね・・。
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その 弓削道鏡、下野国に流されてからの短編、他の一編と併せて後編にてお届けしたいと思います。

 

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