為兼の時代 寺泊の君と萱草の花 – 新潟県

本年1月から放送中のNHK大河ドラマ「光る君へ」、世界最古の私的長編小説 平安女性の手による作品。あまつさえ形式的な構成から大きく脱却した “日常の風景+リアリティ優先” な作風は、その時代にあって革新的なものでした。千年を超えて今に伝えられる所以でもあります。

当時の社会に大きな驚きと興味をもって迎えられた作品であり、これ以降の著作や歌の多くに影響を与えましたが、一方で創作の恋愛事情を書き連ねた内容は宗教的な立場から批判も受けました。いつの時代も革新と保守は一定の割合で並存するのでしょう。

それは時が経ち鎌倉の世になっても同じことで、宮中における和歌のあり方も 単に歌の出来栄えだけでなく、人事的・覇権的な “人のしがらみ” も相まって、中々古来からの定型を抜け出せないところがあったようです。

そんな中、旧来の歌壇に新風を吹き込む革新の歌で知られた歌人がいたことをご存知でしょうか・・。

 

「梅の花くれないにほふ夕暮に 柳なびきて春雨ぞふる」(玉葉)
(梅の花が咲き誇る夕暮れの頃、柳葉は風になびき春の雨が朧に降っている)

穏やかな春の一幕を鷹揚たる叙情に満ちて歌ったこの歌、詠み人の名は “京極為兼”(きょうごく ためかね)。小倉百人一首の選者として知られる藤原定家の系譜を受け継ぐ公卿歌人です。

“こと葉にて心を詠まんとする” 当時の主流あった “表したい形を造りあげるため詠む歌” ではなく、思うところを思うままに詠い 飾らぬままに美しさを彷彿とさせるその歌風は “心のままに歌の匂いゆく” 想いでもあり、古くから築かれてきた宮中歌壇のあり様に、真っ向から立ち向かう潔さでありました。

「春の夜の明くる光のうすにほひ 霞の底ぞ花になりゆく」(歌合)
(春の夜の明るく光る薄ぼんやりとした霞の底に花が咲きゆく。)

新進気鋭の歌人は溢れ出る感動をそのままに詠い、宮中でその頭角を現していったのです。

 

とはいえ為兼の志向する歌の世界も最初から持ち得ていたわけではありません。また、さらに歌を詠むだけで優雅に暮らしていたわけでもありません。 それどころか彼を気鋭のままに突き動かす原動力は、多分に漏れず当時の宮廷社会における権力闘争に裏打ちされていたのです・・。

鎌倉時代の後期、建長6年(1254年)京極為兼は藤原氏北家の流れを汲む京極家に生を受けました。 天皇家を支える重き家柄ではありましたが、時は皇統の内紛に端を発した両統迭立の時代であり、臣下家格間の摩擦も相当に交わされる世相でありました。

そうした背景の中で京極家(京極派)は藤原北家から分かれた まだ新興の分家流派であり、宗家である御子左家(二条派)には常々から不遇をかこつ状況にあったようです。(派は歌人としての流派)

為兼の父 為教もまた熾烈な政争に翻弄されながら生涯を終えた人であり、為兼にとって京極派の勃興は生涯を賭した悲願でもあったのでしょう。

しかし 為兼には父 為教にはなかった天賦の和歌の才がありました。

27歳にして 時の東宮煕仁親王(後の伏見天皇)の側に仕えることとなりましたが、親王とその側近たちには和歌に対して新進の潮流を求める気風があったのです。 そのような環境の中で為兼の才は瞬く間に開花し、時置かずして京極派の強力な推進者となりました。

「あをみわたる芝生の色も涼しきは 茅花さゆるぐ夏の夕暮」(金玉歌合)
(見渡すかぎり青き芝生の色も涼しい。薄暗くなる夏の夕暮れにススキの穂がそよぐ様子が感じられる。)

践祚した伏見天皇の知遇も得て、為兼はいよいよ政治の表舞台に躍り出たといってもいいでしょう。京極派の台頭と京極家の勃興は為兼の双肩にかかっていたのです・・。

 

されど “好事魔多し” の諺があるように、誰かの事がうまく運び過ぎると横槍が入る・・というのが人の世の虚しきところ。 永仁6年(1298年)弥生16日、突如として為兼に “佐渡配流(島流し)” の命が下ります。謀反に通ずる行いこれ有りと・・。

為兼にとって “寝耳に水” の出来事でもありましたが、およそ思うにかねてより軋轢深かった、宗家筋・御子左家 “二条為世”(為兼の従兄にあたる)による工作・讒言によるものであったともいわれていますが定かではありません。

歌人でありながら伏見天皇による政治に深入り “両統迭立・持明院統” に関わったことから、出過ぎた杭は打たれる・・ということなのでしょう。

傷心のうちに辿る配流の旅・・。
築き上げてきた躍進の道もこれまで、都から遠く離れた地に流される為兼の内心は如何ほどのものであったでしょうか。

そんな為兼の心をひととき癒やした出会いが越後国 “寺泊” でありました。 ”初 / 初君” という名の遊女と知り合ったのです。

元々 剛直ともいえ、容易に心許さない性分でもあった為兼の心を溶かし、先の見えない余生にほのかな望みを抱かさせてくれる優しき女性。さらに “初” には為兼も頷かせる歌の心得をも持ち合わせていました。 旅の切なさも相まってか二人はすぐに懇ろな仲となったようです。

とはいえ、やがて波が収まり佐渡への船出の日はやって来ます。
別れを惜しんで “初” がしたためた送り歌が次の歌として残っています。

「もの想い 越後の浦の白波も 立ちかえる倣い ありとこそきけ」

新潟県長岡市寺泊、愛宕神社境内の一角には今も遊女初君の歌碑が心寂しげに建っています・・。

為兼が逗留したといわれる佐渡禅長寺と、新潟寺泊 初姫の歌碑(いずれも昭和中期の画像)

為兼が渡った佐渡島は知られるとおり、古き時代にあって配流の地ではありましたが、桜も咲けばヨラメも咲きます。

ヨラメとは佐渡での呼び名であり 一般的にはカンゾウ(萱草)と呼ばれるユリ科の植物で、春の終わりから初夏にかけてオレンジ色の可愛い花を咲かせます。花や葉は甘味を有し食用にもなり、摂取量を間違えなければ薬効もあるそうです。

特に佐渡島に咲くカンゾウは「トビシマカンゾウ」と呼ばれ、国内でも山形県飛島と佐渡島の二か所にのみ見られる希少種なのだそう。

為兼が渡った鎌倉時代に佐渡島にカンゾウの植生が既にあったかは不詳ですが、カンゾウは万葉の世から歌にも詠まれた古の花でもあります。その時代の佐渡に咲いていたなら為兼もきっと眺めて過ごしていたに違いありません。

カンゾウの花言葉は「忘れ草」。花そのものは朝に開き夕べには萎むことから言われました。また「憂いを忘れ日々新たな心で・・」という意味も兼ねているようです。

しかし為兼は忘れなかったようです・・。

嘉元元年(1303年)帰京の赦しを得て都に帰った為兼、もはや政争を避けて隠遁を・・と思いきや、再出仕が叶うと同時に京極派の興隆に邁進、宿敵 “二条為世” を向こうに和歌の世界に確固たる足跡を残していきます。

その中で残した準・勅撰和歌集ともいえる「玉葉」に、彼の日彼の地でたった数日を過ごした、愛しき君のあの歌を “詠人:遊女 初君” として載せているのです。 勅撰であり著名・有能な歌人が名を連ねる和歌集の中では特別な撰歌といえるでしょうか・・。

「玉葉」を残した翌年 伏見天皇は譲位、出家して天皇の座を退きます。伏見天皇の腹心として共に歩んできた為兼も歩を合わせるように出家を果たし “静覚” と号します。

しかし その二年後、為兼は再び謀反の嫌疑で捕らえられ、今度は土佐国への配流となりました。 そして彼が京の土を踏むことは二度となかったのです・・。

 

為兼が二度もの配流となった経緯・背景には、両統迭立の中でしのぎを削る大覚寺統と持明院統(伏見天皇は持明院統)、そして宮中に大きく関与する鎌倉幕府との軋轢のスケープゴートともいわれています。

実際、伏見天皇に義を通し準じていた為兼自身も、端々で政務に関わりを持っていたため仕方のないことなのですが、その生涯は歌人にあっては誠 波乱に満ちた人生でありました。

寺泊で初君と過ごした数日は、過酷な日々の中で得られた、哀しくも満たされたひとときだったのかもしれません。

初君を残して佐渡に発つ為兼が、彼女の歌に応じて返した歌が一遍残されています。

「逢うことを またいつかはと木綿たすき 懸けし誓いを神にまかせて」

6月9日から佐渡市願 “大野亀” では「佐渡カンゾウWEEK」が開催予定です。50万株100万本ともいわれる “トビシマカンゾウ” の群生。地元の民芸やイベントを背景に、往古、この地で過ごした為兼の生き様に、想いを巡らせてみるのも良いかもしれません・・。

画像© さど観光ナビ /(一社)佐渡観光交流機構

『佐渡カンゾウWEEK』さど観光ナビ・当該ページ

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