空に届く青海の真魚 そして父と子 – 後

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さてさて、引き続き若き日の聖人、親からもらった名前 “眞魚” から法名に変えて間もない “空海” のお話が続きます。

せっかく有名大学に入れたのに・・もとい、父と一族の期待を一身に背負い その才覚ゆえに大学寮にまで進んだのに・・。 ある時から中央の教学を離れ大陸仏教に傾倒し、ついには出家までしてしまった息子に対して、父 善通は憤懣やる方なし。心の持って行きどころがありません・・。

そんな父に対し、眞魚は「聾瞽指帰(ろうこうしいき)」という上下巻二冊からなる書を著し送っています。 「聾瞽指帰」は 眞魚が出家に至る想いと今後に対する決意の表明書であり、同時に父や一族に対する弁明であったとも伝わりますが・・。

 

その内容をざっくり言いますと・・「(世に資するべく勉強を続けてまいりましたが)儒教は政治の具であると同時に私の想いに足るものではなく、新たな仏教思想こそ民を救い導くに至るものと考え、その道に進むことを決意しました・・。」というもの。

只、それをグダグダと弁解がましく言葉を並べるのではなく一遍の物語を制作。 儒教先生、道教隠士、仏教僧、そして蛭牙(しつが)という問題提示者を登場させ、その問答を通して 分かりやすく仏教の優位性を解いた形・・の、いわば「How to 仏教のススメ」とでもいえるような書物。

「聾瞽指帰」画像元©Wikipedia

能書きより事の本質を理解してもらう方が早いと考えた眞魚の合理性なのか、それとも遊び心なのか、どちらにせよ眞魚・空海の知性が勉学のみにあらずウィットにも溢れたものであったことが伺われます・・。

前編でも触れたように “空海” の名は、眞魚が室戸の海岸洞窟から見た空と海のみの景色から得たもの・・。 “真魚” にしてみれば己が進むべき道を得て 天と通ずる吉兆であったのかもしれません。

 

この後も空海は研鑽を積み 智慧を重ねながらひたすら求道を極め、ついに延暦23年(803年)には遣唐使の一員に認められ入唐を果たします。遣唐使随員に認められた背景には、かつて空海を得度に導いた師 “勤操(ごんそう)” の助力もあったといわれます。 また、この時の随員には後に仏教双璧をなす “最澄” も同船していたといいますから数奇な運命を感じますね・・。

苦難の道程を踏みしめながらも大都長安に至ると、ここに空海の人生最高の師ともいわれる恵果和尚(密教第七祖)との出会いを果たし入門を許されます。 ・・というよりも、時の唐国 密教において最高位であり千人からの弟子を持つ状況にあって、未だ正嫡(正式な一番弟子)を定めていなかった恵果が 初見にして空海の資質と気概を見抜き、即座に正嫡に抜擢した・・という顛末だったそうで・・。

その能力の高さから空海、僅か半年足らずの間に密教奥義の大半を修得、最高位ともいえる阿闍梨位の灌頂(認可)を与えられました。 既に晩年にあった師 恵果和尚、自らが会得してきた全ての法を空海に授けると「汝、これらを持ち日の本に帰りて広めるべし、それこそ我への報いとならん」と言い残したのだそうです。

恵果、入寂の際に葬儀代表となったのも空海であったと伝わります。

出立前20年の予定であった長期滞唐をたった2年余りで満願、帰国を果たした空海は その後 朝廷より認められ、真言密教の確立と国事行政への助力に邁進してゆくわけですが・・。

この帰国の翌年である大同2年(807年)建立されたのが「善通寺」です。 先に空海の父 “佐伯田公 善通” から名付けられた寺と申しましたが、このお寺、善通 自らの邸地 四町四方(400m四方)を寄進した場所に興されました。

親の思惑を外れ孤高の道を歩んだ眞魚に憤慨した善通でしたが、それは同時に “安定の道を捨てた息子に対する心配でもあったのでしょう。 見事、本懐を成し遂げ高位灌頂まで賜り帰国を果たした息子に対して、善通 感無量の熱い思いに満たされていたのかもしれませんね・・。

また、建てられた寺院は長安で師事していた恵果和尚の居寺 “青龍寺” に範を取って作られたともいわれています。 誠、この地この寺院は “眞魚・空海” にとって “はじまりの地” であり “結実の地” であり、 “真言宗十八本山” の揺るぎなき第一番札所に相応しき寺院なのです・・。 眞魚の、善通の、そして恵果や勤操の熱き想いが宿るこの場所こそ “弘法大師・空海” を語る上で欠かせない聖地といえるでしょう・・。

 

「善通寺 誕生院」 薬師如来を本尊とし東西二軒の大伽藍を誇る この寺は、その山号 “屏風浦五岳山(びょうぶがうらごがくさん)” に見えるように、香色山(こうしきざん)、筆ノ山(ふでのやま)、我拝師山(がはいしさん)、中山(なかやま)、火上山(ひあげやま)の五山によって抱かれています。

中でも 珍妙に盛り上がったその姿から、古く “ひつざん” とも呼ばれた筆ノ山(ふでのやま)は、春になるとその山肌に点描画のごときヤマザクラの景観を描き出してくれます。開花はソメイヨシノと入れ替わりの4月中旬辺りから・・。

“お大師さん” の 朴訥ながらも暖かく、天に向かって伸びゆく春の景色を堪能されるのも良いのではないでしょうか・・。

『総本山善通寺 – 四国霊場第75番札所』 公式サイト

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