空に届く青海の真魚 そして父と子 – 前

〜 山のあなたの空遠く “幸(さいわい)” 住むと人のいふ・・〜
と詩ったのはドイツの詩人カール・ブッセ。

訳[ 山の向こう、ずっと遠い空の彼方まで行けば そこに幸福があるはずと誰かが言っていたけれど・・ ]

続く詩文のごとく、たとえ遥か山の彼方を訪ねてみたところで、すぐさま実感できるような幸せがあろうはずもなく、幸福や望みの達成とは、意外な場所に静かに息づいているものですが、それは得てして気づきにくく、そっとそこに佇んでいるもの・・。 山を越え海を渡り幾多の労苦を噛み締めて、はじめて我が身の傍にあることが分かるものなのでしょうか・・。

讃岐の山を越え往古の京に学び、やがて海を渡りて悟りに結び、ついには四国の山々を見晴らしながら天下にその名を残したひとりの僧さえ、そのことを感じていたのかもしれません・・。

 

四国といえば八十八箇所霊場巡り いわゆる “お遍路さん” ですが、徒歩巡礼、菅笠・白装束に・・と、そこまで本格的でなくとも公共交通機関や自家用車でも行けますし、私服のままでも参拝は可能です。※できれば “金剛杖” に “輪袈裟” 程度は あった方が色々と都合は宜しいようです。 後、最低限守るべきマナーなど・・こちらのサイトなどでよくまとめられています。「油絵研究所 / お遍路に私服で参拝できるのか」

四国の霊場巡りのベストシーズンは3〜5月・10〜11月、まさに行楽シーズンでもあり、それだけ人出も多いでしょうが、春めく賑わいの中 お参りしてみるのも楽しいかもしれませんね。

今回は そんな八十八箇所霊場の中から七十五番札所、香川県善通寺市にある名刹『善通寺』[屏風浦五岳山(びょうぶがうらごがくさん)]、そして その地に生まれ世界に通じた弘法大師空海にまつわるお話をお届けしたいと思います。

 

七十五番札所と書きましたが、善通寺は真言宗の主たる諸派大本山 “真言宗十八本山”(近畿一円と香川県の一刹)の第一番札所も務めており・・、いわば八十八箇所と二重の巡礼霊場として崇敬と人気を集める寺院でもあるのです。 因みに真言宗本山最終 第十八番札所はお察しのとおり、和歌山県の高野山「金剛峯寺」となっています。

四国第七十五番札所『善通寺』

四国八十八箇所が、弘法大師に縁の深いお寺を高弟であった真済(もしくは衛門三郎)によって巡礼されたことを由緒としているのに対し、真言宗十八本山は、大師生誕の地である讃岐国多度(現在の香川県善通寺市)の “善通寺” を はじめの第一番、京の都で時の嵯峨天皇から託された “東寺” を中核の第九番、一大霊山を築き また入定された和歌山高野山の “金剛峯寺” を第一八番と、大師による教化進展の足跡を土台としています。

要するに、ここ “善通寺” はその院号を “誕生院” と称するように、真言宗のはじめであり、弘法大師・空海の生まれに深く関わる場所でもあるわけですね。

 

さて、この “善通寺” 。読みは “ぜんつうじ” ですが、その名の元は弘法大師の父 “佐伯 田公(さえき の たぎみ)” の諱である “善通(よしみち)” からとられています。 佐伯田公は讃岐国多度の豪族であり実力者、言い換えるならば “地元の名士” にあたるでしょうか。 妻であり大師の母にあたる “玉依” の方は阿刀氏の流れを汲んでいます。

ご両親の元、774年(奈良時代の後半)太師はお生まれになりました。幼名を “眞魚(まお)” といい 早くから聡明さを発揮、神童と呼ばれるほどだったといわれます。 多くの子供のように野に駆け水辺に遊びもしましたが、神性を垣間見せることも少なからず “土に触れれば仏像を象り 石をば積まば塔婆を築いた” とさえ伝わるほどでした。

そんな 利発な息子を父 善通(よしみち)が放っておくはずもなく、眞魚の将来に大いに期待をかけ、ひいては一族の繁栄にもつなげるべく平城京の氏寺 “佐伯院” に預けます。 中央官僚となりそこで出世を果たせば、息子の人生も佐伯家の安泰も約束されたと同然と考えたのでしょう・・。当時 豪族のあり方としては ごく一般的な嘱望だったと思います。

母方の叔父であり、桓武天皇の皇子の師範をも勤めた “阿刀大足(あとのおおたり)” を師に研鑽を積み18の歳に大学寮へ進むと、儒学を専攻とする明経道という学科に属しました。今日でいうなら “ド真ん中のエリートコース” です。順当に歩を進める眞魚の姿に善通の喜びもひとしおだったのではないでしょうか・・。

 

ところが 眞魚、入学から一年ほど経つうちに どうも様子が変わってきてしまいます。
儒学の勉強もそこそこに、仏教、ことに密教への傾倒を深め その道の探求に没頭しはじめる始末。山海に出向いては修行を積み、手に入る経文を読み漁る日々・・。

そして ある日、運命とも言えるひとりの僧侶との出会いを果たします。 僧侶の名は “勤操(ごんそう・勤操大徳)” 三論宗大安寺に連なる聖であり眞魚に求聞持法(修法)を授け、ついには和泉国・槙尾山において剃髪に導き、眞魚は20歳過ぎにして得度。一介の僧侶となってしまいました・・。

やがて室戸の海岸洞窟で修行を積んでいる際に悟りを得、洞窟から見える空と海のみの知見に因み 法名を “空海” と改め、生涯をその名で歩き続けます・・。(得度後 “教海” 、その後 “如空” 、最終的な法名として “空海” )

 

この成り行きに怒ったのが善通・・。 まぁ そりゃそうですかね、末は(今で言う)法務省や文部省の事務次官 辺りに・・と思っていたら、いつの間にか勝手に一人親方の自営業に転身していたようなもの・・ w。

官人になっていれば国家の保護も手厚く、眞魚ほどの器量をもってすれば高位に座することも容易かろうに、僧侶などになった日には、余程 目に見える成果をあげて国に認められない限り食うにも困り、下手をすれば乞食坊主同然のまま一生を終えることにさえなりかねないのですから・・。 現代のように個性の尊重や様々な社会保障が確立されていない時代、家格発展は置いたとしても、子の将来を思えば安定の道を歩んでほしかったと思うのも また親の願いというものでしょう。

されど 子の行く末、歩む道は親の思い通りにはならないもの・・というのも古今東西 変わらぬもののようです。

『総本山善通寺 – 四国霊場第75番札所』 公式サイト

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