不器用な猪武者を称え小諸の桜 – 長野県

まだまだ寒い日が続きますが皆様には如何お過ごしでしょうか。例年に比べ今年は暖冬なのだそうですが、それでも寒い日は寒い・・。 寒さだけが因でないにしても、昨年末、数年ぶりにひいた風邪にはかなりまいりました。(熱が高く咳が長引く)

感染症 5類移行後、世間的にも気が緩んだか、ここのところコロナやインフルエンザの感染者数も上がり続けていますので、どうかご注意いただければと思います。 先日には立春も数えました。残るところ寒さも後 2ヶ月前後、花の季節到来までお互い気を付けていきたいものですね。

寒いながら立春ともなれば一応、春の先触れとでもいいましょうか、季節の微かな上向きを感じる時期ということになっています。 未だ行楽・・というよりは温泉の方が恋しい気候ではありますが3月後半には春分・・、温泉も含めてお出掛けの計画にあれこれ思いを馳せてみるのも、今だからこそと言えるのかもしれません。

 

さて、(私のような寒がりが)外へも出掛けず家に籠もって、たまの空き時間に歴史漫画などを読んでおりますと、脚色されているとはいえ何かと参考や発案の切っ掛けになるネタが潜んでいることも少なくありません。

2004年から足掛け18年、4部作 コミック計72巻(別に番外編有り)に渡って続けられ2022年に完結した宮下英樹作『センゴク』シリーズは、それまでややマイナーだった武将に着目、作者独自の解釈を含みながらも活気と苦悩を雄弁に描いた戦国絵巻でありました。

「センゴク」 画像©宮下英樹/講談社

主人公、“仙石秀久” は美濃国守護代であった斎藤氏(下剋上で成り上がった斎藤道三など含んで以降)に仕えますが、美濃斎藤氏没落の後は 織田信長の目に止まり、以後 信長家臣の木下藤吉郎(後の羽柴 / 豊臣秀吉)の寄騎として活躍します。

生来 悩み込まない性分で、良く言えば果敢、砕けて言うなら あまり考えずに行動する(俗に言う)”猪武者(イノシシ武者)” でありましたが、その天然さと武勇によって、出世を続ける秀吉に重用され、やがては讃岐国一国を領する大名にまで上り詰めました。

 

只、この仙石秀久、歴史家や従来の歴史ファン(特に戦国時代)からは あまり好意的な評価を受けて来たとは言えません。

“戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい)” という 秀吉による九州平定の合戦で、”持久戦に徹するべし” との秀吉の指図を無視して先攻した挙げ句 島津の軍勢に大敗し撤退。 のみならず、総指揮である身もわきまえず早々に讃岐国まで逃げ帰った・・と伝わることから “愚か者・臆病者” のレッテルを貼られてしまったことが大きな要因でしょう。

実際、この命令違反と敗戦、そして無責任な敗退に対して秀吉は仙石家改易を宣告、秀久本人には高野山への追放を課しており、これにより仙石秀久はそれまでに築き上げてきた栄誉の全てを失い、同時に大名としての仙石家は一旦失われてしまいます・・。

「センゴク権兵衛」 画像©宮下英樹/講談社

しかし その4年後、同じく秀吉による “小田原征伐” が始まると、幽閉の身であるにもかかわらず秀久は旧臣郎党を掻き集め、秀吉陣営に半ば一方的に参戦、徳川家康の助力もあって陣借りが許されると後北条氏を向こうに破竹の勢いで進撃。

極めて目立つ出で立ちで戦場に立ち、その陣羽織一面に鈴を縫い散りばめ敵の注意を引いたことから今度は “鈴鳴り武者” の異名をとりました。 小田原城虎口の制圧など大きな武功を上げ、かつての失態を秀吉から赦されると、新たに信濃国 小諸に領地を得、領主大名へと返り咲きました。

コミック「センゴク」をして “戦国史上最も失敗し挽回した男” とされる所以です・・。

 

仙石秀久については戸次川での敗退意外にも、粗暴な性格で、戦の際には現地調達を頻繁に行ったなど否定的な意見も散見されますが・・。 信長、秀吉からは権兵衛と呼んで目をかけられ、そして家康や秀忠からも誼にされ、結果的に江戸開幕にまで家名をつないだ生き様は、悲劇的武士のドラマさえ無いものの評価されてしかるべきでしょう。

そして新天地 小諸に築き残したものも少なくありません。

天正18年(1590年)秀久 小諸藩初代藩主として領地に入府。暫くの間は京詰めで秀吉の近くに仕えましたが、その頃に謳われた話として彼の “石川五右衛門” を捕らまえたという伝説が残っています。

秀吉晩年の頃に至ると中央政争を離れて領地の整備・経営に力を入れています。 「小諸城」は元々信濃国に影響力を持っていた武田信玄の手によるものですが、まだ辺境の防備といった位置付けでした。 秀久によってはじめて近代的な城郭へと整備されたのだそうです。

 

城下町や街道の整備・開発に努め地域発展の礎を築きながら、一方で農村地帯には大規模な灌漑を施すなど、安定の時代に向けた基盤作りに励みます。・・が、入れ込み過ぎたせいか、あまりに急激な工事労役の煽りで農民の逃散を招いてしまい、慌てて年貢の減額や厚生制度の取り入れなど対策を講じたのだとか・・。

全く、考えがあるのかないのか、元 猪武者だけに真っ直ぐ前を見て走ることだけしか考えてなかったのですかねw。

打ちたての蕎麦切り

小回りが利かず不器用、腹の探り合いなど苦手、しかし それだけに純真であり領民には近い存在であったようで、入府の頃から身分のことなど考えず誰彼構わず話しかけたり、一緒に湯屋に浸かったりもしたそうです。

また “蕎麦切り” を領地の特産にしようと奮闘・・。 現代において蕎麦というと大半 “麺” のイメージですが、この形が始まったのは安土桃山の頃から。それまでは “蕎麦米” といって実のまま食べるか、練って茹でた団子のような “蕎麦がき” が普通でした。

細い麺状に加工する手立てを秀久手づから領民に教え広めることで、特産品の開発と領民とのコミュニケーション両立を狙ったらしく、この親しみから民衆からは “仙石さん” と呼ばれていたそうです。 小諸における切り蕎麦の文化は秀久によって開かれたものであり、それは現代にも脈々と受け継がれているのです。

 

小諸城 大手門

秀久が日頃 参拝した神社は “建速神社”(旧社地)といわれ、そこに至る坂は “権兵衛坂” * と呼ばれ今に続いているそうで・・。 * 権兵衛=仙石秀久の俗称

規模は小さいものの、旧来の武人よろしく質実剛健で改築された小諸城は、現在、大手門と三之門をはじめとした幾ばくかの遺構を残すのみで その多くは失われていますが、本丸跡を中心に『懐古園』という静かな歴史公園に整備されています。

 

隣接した敷地内には昭和の香り残す児童遊園地や美術館も設えられており、市民の憩いの場となっていることは言うまでもありません。

この『懐古園』は桜の名所としても名高く、春には風趣豊かな景観をゆったりと味あわせてくれるでしょう。4月1日から25日まで行われる “桜まつり”、中でも紫色がかった小諸固有種 “小諸八重紅枝垂” は桜好きの方には一見の価値があるかと思います。

歴史のメインストリームからは、やや目立たぬまでも愚直に走り続けた武将。そして彼が育てた町と城趾。 そこに息づくのは派手な物語こそないものの、丹精でアットホームな気風なのかもしれません・・。

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