北の大地の命脈は如何に紡がれたか – 北海道

北の大地における先住者といえばアイヌ民族とされています。その初出は一万年を数える縄文時代にまでさえ届くといわれるほど古く、往古には北海道のみならず、北は(現在の)ロシア領土から 南は本州東北地域にまで、その移流民族と文化圏を拡げていました。

イナバナ.コムでは 今までにも何度か、アイヌ民族にまつわるお話をお届けしたことがありますが、本日は その逆の立場・・とでもいいましょうか。 主に明治期以降、北海道に入植して当地の開拓に人生を賭けた “開拓使 / 開拓移民” の歴史に触れてみようと思います。

以前の記事、「Boys, be ambitious like this old man / 若者たちよ大望を持て、この老体のごとく」と残した “ウィリアム・スミス・クラーク” 博士も、この北海道開拓のために招聘された農学者であったのです。

 

「開拓使」は明治2年(1869年)に制定された北海道開拓のための官庁です。(一時は北海道開拓使とも称しました。) 小樽市の東端 “銭函” に用意された家屋を仮庁舎として新天地開拓の絵図を描き、明治4年、札幌にようやく本庁舎を築くに至りました。

外観再現された札幌本庁舎

広大の版図、北海道開拓という、いわば国策プロジェクトにしては少々こじんまりしたスタートに見えますが・・、そもそも当時の明治政府には、この策定を強力に推し進めてゆく資金もなければ十全たる知見もありませんでした。それどころか政府自身、財政難の真最中という状態・・。

それでも、新国家体制樹立以降、早々に北海道開拓に着手したのは、古くからこの大地に食指を抱き続けるロシアへの危機感によるものでした。樺太・択捉近辺での侵食行為は この数十年前から頻発していたのです。

個別の部族社会であるアイヌの文化体制では、いずれロシアに併呑されてゆくのは火を見るよりも明らかであり、それを阻止し国土を確定することは当時 喫緊の課題でもありました。 もとより幕末期の動乱、明治維新にかけての本意のひとつは 欧米列強への対峙でもあったので、北海道開拓は国家確立のための北の柱石でもあったのでしょう。

 

国の形が180度 転換したと言っても過言でない明治初期、国家のあらゆる部分に改革を施さなければならず、重度の資金難の中 進められた「開拓使」でしたが、樺太に対するロシアの派兵や移民が強行されてゆく中で、それに向けての対策はやがて比重を大きくしていきます。

小規模で始められた開拓使、札幌に本庁が構えられる少し前には “樺太開拓使” も設置され、事実上の総監として “黒田清隆”(軍人・後の第二代総理大臣)を着任させますが、既に樺太領域におけるロシアの覇権は抗し難いほど力を増しており・・。

これに対する策として先ずは “樺太開拓使” を一旦廃止、道内の “北海道開拓使” と統合・実行力を集中させることで基礎的な対抗力を拡充することにしました。 北の大地にあって不可避である “極寒” という過酷な自然条件にあっては、根本的な運営能力の確立が先決と判断したからです。

 

当初、国内の各藩や資産家に頼っていた物資・資金の調達・現地運営に関しても巨額の予算を注入、政府主導で統括的な開拓と領土防衛のための人員配置を進めていきます。

安定した農産技術導入のため、先述のクラーク博士をはじめホーレス・ケプロン、ルイス・ベーマー、ウィリアム・ブルックスら幾多の客員指導者が招聘され “御雇外国人” の通称でその任にあたり、後に続く大規模農産地の礎を築いたのです。

一方、幕末期に旧幕府軍の重鎮として活動し、戊辰戦争・箱館戦争を戦ったものの敗戦、服役・特赦の後 新政府の役人として復帰していた “榎本武揚(えのもとたけあき)” は、かねてよりの北海道知見を買われ開拓使として現地に赴任、鉱山調査に従事。後にはロシアとの交渉にあたる “駐露特命全権公使” にも任命され、紛争解決と国境線確定案件(樺太・千島交換条約)の締結に尽力しました。

また、何より大事な居住者を拡充するため、当初は旧松前藩(現在の渡島半島・函館)をはじめ、弘前、盛岡など 旧藩各地からの希望移民を募りましたが、これらの多くを平時は農作、有事は軍務機能する “屯田兵” として組織し、開拓の基礎としたのも元を正せば幕臣時代の榎本武揚の発案であったともいわれています。

(左)榎本武揚 (右)ウィリアム・ペン・ブルックス

 

四方無限、夢溢れる大地といえど、同時に未開の地でもある土地を開き、そこに安定した生活の基礎を築くのは並大抵の苦労ではありません。木を切るのも土を起こすのも全て人力であった時代です。 地勢も植生も違えば、加えて厳寒な気候から その活動も狭められたことでしょう。

それでも尚、新天地の開拓に数多の人々が人生を賭けられたのは、その先に未来の光を信じていたからに他なりません。

移民や屯田兵として志願した人々の多くは、体制変革を経てそれまでの職を失った武士たちや、本土での暮らしに先行きが立たなくなった人達でした。 当初の生活に対する最低限の保証と開拓地の格安払い下げ・所有権の成約に、人々は夢と人生の全てを掛けて鍬や斧を振るい、そして軍事訓練に打ち込みました。

明治期の話ではなく その数十年後、昭和中盤に移住して未開地の開墾にあたった人の話を聞いても、その奮闘ぶりには驚かされることの多いもの。既に一定の町や道、農具やトラックがあった時代でさえそうなのですから、開拓初期の人々の苦労やその情熱は現代の感覚を超越していたと言って過言でないのではないでしょうか・・。

上記画像 © 北海道大学北方資料室

 

そして これらの中で、先住者であるアイヌ民族との軋轢や葛藤・不平等、さらには文言に出来ないような痛ましい事案が数多にあったであろうことは否定し難い事実でありましょう。 結果的に文明度で先んずる国家体制に、民族とその文化は大きく排斥されてしまったのですから・・。

現在、道内居住人口1万数千人(厳密な人数は確認不能)とされるアイヌ民族。その保護と文化継承のために1997年2019年と保護新法が更改制定されてきましたが、その効果は未だ限定的ともいわれ、アイヌ命脈の行く先が懸念されるところではあります・・。

只、アイヌ民族の力だけで北の大地の独立性を固守出来ていたかというと歴史的見地からすれば甚だ危うく、明治期の国境線確定を進めていなければ、今、青森県 津軽海峡を挟んだ対岸にミサイル基地が並んでいた結果も否定出来ないのです。

画像 © 北海道大学北方資料室

憂国の義心に人生を掛けて、維新と国家形成に打ち込んだ者。
時代の変革にその糧を失くし、過酷な新天地に身を投じた者。
祖先からの地を守りたいと願いながらも強大な力に翻弄された者。
あらゆる人々の想いを巻き込みながらの時代のうねり・・。

只ひとつ確実なのは 過去の事跡がどうあれ、現在の私たちの暮らしは、その人々の情熱と苦労、夢と悲しみ、ありとあらゆる希望と迷いの上に築かれているということなのでしょう。

 

「開拓使」が置かれた現 札幌市の郊外、厚別町小野幌の公園内には移住開拓時代の歴史や文化、建造物や資料などを保存する屋外文化施設群『北海道開拓の村』が、立地・公開されています。

抗い難い時の流れに立ちながらも、懸命に生きようとした人々の暮らしを垣間見ることのできる歴史施設。その時代の開拓者側からの視点で顧みてみるのも、またひとつの勉強になるのではないでしょうか・・。

※ 以前はその近隣に開拓100年記念のシンボルとしての100m塔 “北海道百年記念塔” が建っていましたが、老朽化のため解体されました。

『北海道開拓の村』 公式サイト

 

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