情熱と創造 日本最初の民間鉄道 – 大阪府

先日お送りした “熊野チュートリアル” 含め、私が和歌山在住であることは何度か触れていますが・・。 和歌山県という所は 国土的な見地から見ると、東海道から山陽道へと続く幹線の流れに対して ほぼ直角に南下した位置にあり、また古くは和泉山脈によってその通行が制限されていたため、地理的にも、また歴史的にもメインストリームから やや離れた存在といえます・・。

そのため 30年位前までは 中部・関東方面、また神戸方面いずれの方へ出掛けるにも、一度 大阪に出てから・・といった形を取るのが一般的でした。(現在では京都や名古屋方面、神戸方面への直通道路も整備されています。)

和歌山から大阪に向けて車を走らせる途中、阪南、泉南という地域を抜けて “堺市” を通ります。数え切れないほど幾度も通った道です。

只、この “堺市”、私の単なる思い込みかもしれません、本当に何となくですが・・、何故か他の町とは雰囲気が違うような気がするんですよね・・。

 

“堺市” または “堺” という地名から皆様は何を想起されるでしょう? やはり一番に出てくるのは、茶人にして商人、時の政治にも少なからず関わった “千利休” でしょうか? それとも貿易商として名を馳せた “呂宋助左衛門” でしょうか?

いずれにせよ この二人に共通するキーワードは、独創的な思考や想像力を持っていたこと、そして、商才にも長けていたことでしょうか? ”侘び寂び” と時の流れに朽ちてゆくものに美を見るなど、現(うつつ)から遠いイメージの千利休ですが、創造的な発露と商才を奮う一時は上手く使い分けていた面もあったようです。

江戸時代の堺港新地

ともあれ、こうした創造と繁栄を両立しうる風土は両者の事績のみならず、古代にはヤマト朝廷下の重要拠点、中世には交通と交易の要として、その地歩を築き上げてきた “堺” 独特の気風というものが関わっているのではないかと思うのです。

国全体が近代化を果たした現在では その特異性も少々薄れ、ウインドウから見る景色も大阪府の普通の一角としか映りませんが、何処とはなしに感じる “開けた町” 感は、こうした歴史が今に反映しているのかもしれません・・。

 

そんな堺の町で明治15年(1882年)画期的なプロジェクトが持ち上がりました。それは 日本初 “民間鉄道路線” の開設。

日本で初めて開業・運行された鉄道路線が、明治5年新橋〜横浜間の蒸気機関であったことはご承知のとおり。以前にも150周年の記事をお届けしましたよね。 またその後も神戸〜大阪、大阪〜京都間と鉄道の延伸も為されましたが、それらは全て国が主体の事業。 “ 官設鉄道(官鉄)” によるものです。

汐留・新橋駅(当時)開業記念式典

新時代に向けて変わりゆく この国の行き先を政府ばかりに任せてはおけない。文明の開化は民間からも開かれるべきである! 意を決した在阪の有志19人が、難波新地〜堺 間の鉄道敷設を発起、明治17年に国からの許可が降りると『大阪堺間鉄道』として会社を設立。工事着手に入ったのでした。

大阪市と堺市を結ぶ路線、これはそれぞれが歴史的に商業で栄え都市機能を果たしていた町、ということが外せません。上でも述べた堺独自の風土は “古の都会” ならではのことだったのでしょう。

実はこれに先んずること1年前、 “日本鉄道株式会社” という民間会社によって上野〜青森間の長距離路線が立案、工事も進められていましたが、こちらは政府肝煎りの大型プロジェクト、半官半民の様態でありました。 後に “日本鉄道株式会社” は国の統制下に入って “国鉄” の前身の一部となったことからも、純然たる民間鉄道の軌道は『大阪堺間鉄道』が初と言えるのではないでしょうか。

 

開発認可が降りた明治17年6月、そして11月には名を『阪堺鉄道(はんかいてつどう)』と改め、敷設工事は進められます。 当初、予定されていた営業路線は上述のとおり大阪市南区難波新地から堺まででしたが、途中(難波側から)天下茶屋、住吉と駅を置き、大和川北岸に至ったところで仮の駅(大和川)を設置して、18年も正に年の暮れ12月29日、営業運行を開始したのでした。

難波~堺間の最初の機関車「和歌号」

これは 大和川への架橋に工費も時間も掛かるため、兎にも角にも営業を開始し、運営費を回収しなければならない苦肉の策ともいえるものでした。

(総)区間11km程とはいえ、知見も経験も足らぬ時代に実質 1年数ヶ月で ここまで完成に至った背景には、既に廃線になっていた官製路線の車両や鉄道資材を流用するなど、民間ならではの様々な知恵が絞られたようです。

最も重大かつ難工事でもある大和川架橋を苦難の末成し遂げ、堺駅(現在の堺市吾妻橋)にまで延伸が完了したのが明治21年3月、同年5月15日をもって晴れて全線開通が成され、民間の手による鉄道路線開設という悲願は達せられたのです。

 

陸蒸気(おかじょうき)などと呼ばれ、当時はある意味 “奇異で恐ろしいもの” と感じる人も少なくない中、それでも開業から程なく乗車率もまずまず上々といったところ。 恐ろしきも興味は尽きず 乗ってみれば便利に楽しき・・と、新しいものに二の足を踏みながらも馴染んでいった、当時の人々や世情が目に浮かぶようですね。 運営継続の見込みも立ち、10年後の明治32年には乗車率・営業利益とも10倍近くに達したそうです。

開業当時の堺駅、吾妻橋駅との通称もあったという。

難波〜堺 間の運営が軌道に乗る頃になると、既に懸案となっていた 大阪〜和歌山間 路線開設の話が持ち上がります。

筆頭・松本重太郎氏 以下有志が率先して計画に着手、「和泉鉄道」開設を出願・進行しつつ「阪堺鉄道」との一体化を進めたそうで・・。また、同時期・同地域に進められていた「紀阪鉄道」との合併をも達成し工事に着手。 その後、社名を「南陽鉄道」さらに「南海鉄道」と改め、今日の「南海電気鉄道」の礎を築いたのでした。

この後、繰り返される自然災害被害からの復興や、国鉄への吸収の回避、線路幅の改定や車輌の電化などの幾多の難事をかいくぐり現代に続いているのです・・。 そこには先見と経済に秀でた大阪のバイタリティ、そして創造性に溢れた堺の気風が今も息づいているのでしょう・・。

 

最後になりましたが、本日 ご案内した記事の『阪堺鉄道』と、大正12年に創業、芦原橋~浜寺 間を路線とし、昭和19年に大阪市に吸収・解散した「阪堺電鉄(新阪堺)」とは関連のない別会社です。 また 現在、大阪及び堺市内で2路線の路面電車を運行している「阪堺電気軌道 / 阪堺電車」とも同じく別の会社です。 ちょっとややこしいですね・・
(^_^;)

大和川を渡る「阪堺電気軌道 / 阪堺電車」

只、市民の足として現在も重宝されている「阪堺電気軌道 / 阪堺電車」は、路面電車、いわゆる “チンチン電車” であり、ゆったり、のんびり、堺の街を散策するにはかけがえのない路線でもあります。 イベントなども随時開催しているようなので、堺の町を訪れられた際には ぜひご乗車いただければと思います。。 (^^)

『南海電気鉄道株式会社』 公式サイト

『阪堺電気軌道株式会社』 公式サイト

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