黄泉還りの国の簡易チュートリアル – 和歌山県

以前にも少し触れましたが 和歌山県在住です。先日、日本の中心・お腹の話の流れから長野県にまつわる記事を書きましたが、それでいうと和歌山県は下腹部辺りにでもなるのでしょうかねw?

今から丁度 一年前にも和歌山県から民話の話題をお送りしました。それも南北に長い和歌山県の南、紀南・熊野地方を舞台としたお話でした。都を遠くの場所に生まれる妙異の民話・伝承の宝庫といったところなのかもしれません。

熊野地方、熊野三山、そこに息づく原生の自然やスピリチュアルなイメージからか、近年ではむしろ外国の人たちからの関心が高く、訪れる観光客も 海外からのツアー客やバックパッカーの方が多勢を占め、2019年の宿泊数は50万人にも達したそうです。

おかげで “KUMANO” の名は、国内外に広く知られることとなりましたが・・、 さて、実のところ “熊野” とは、”熊野三山” とは何なのか? 熊野の信仰とはどういったものなのか? 分かりやすく答えられる方は、どれだけ居られるでしょうか・・? 今回はこの “熊野” に関する、簡易なチュートリアル(説明・案内)記事にしたいと思います・・。

 

とりあえず、場所・地域の再確認をしてみましょう。
和歌山県に住んでいると、とかく “和歌山の熊野”・・的なニュアンスの話になるのですが、実際、熊野地方の凡そ4割方は 今の三重県南西部に属しています(面積的比較)。

現在も一部存続している地名、和歌山県 西牟婁郡(にしむろぐん)、東牟婁郡、三重県 北牟婁郡、南牟婁郡の四郡に相当する地盤を指して “熊野地方” と称します。

・・で、その前、というか、遥か昔(飛鳥〜奈良時代)のお話。
紀伊国(和歌山県)は現在の県域の北半分でしかありませんでした。”紀氏” という豪族の治める領域を “紀国” と言い、その南端の一区域を “牟婁郡”(現在の田辺市辺り)と呼んでいたのです。

そして、そこからさらに南、先に書いた熊野地方領域は、当時 “熊野氏” が治めるところの “熊野国” であったのです。(注:只、熊野の熊という文字は “隈・クマ(すみっこ・最果ての意味)” から充てられたという学説もあり、その場合、熊野国は都からみた呼び名であって、自国民が何と呼び習わしていたかは不明)

南北に二分、それぞれ独立した地域でありましたが、律令制の施行とともに “熊野国” は “紀国 / 紀伊国” に併合され、その時 “牟婁郡” の中に組み入れられました。(実際には牟婁郡が大拡張された感じ)

こうして、和泉山脈(大阪と和歌山を分ける)以南から、現在の三重県南西部までを領する改変 “紀伊国” が誕生し、新制 “牟婁” を “熊野” と呼ぶ形が出来上がったのでした・・。

 

「樹々が鬱蒼と生い茂る森に、自然崇拝を源とする信仰が根付き、死後の世界=黄泉の国と通じていると信じられてきた聖地・・・”神々のおわす奥まった地” という意味であり、人々がたやすく近づけない秘境の地であった。」和歌山県ホームページより一部抜粋

都からは(それが奈良の都でも京都の都からでも)”かなり頑張らないと” 行けない 深山に囲まれた最果ての地、そしてさらに、その先には無限の太洋が広がる異境のごとき国・・。

こうした立地から、そこに茫漠とした神厳のイメージが出来上がり、また実際 このような地勢も手伝ってか当地には、古くから(おそらくは原始的な土着神を母体として)後の “熊野三山” につながる宗教的風土が醸成されていたのでしょう。

“熊野” の元意には上で書きました “隈(クマ)” の他に、”神(カム)” “供物(クモツ)” さらに “熊(神的な)” そのものの意である・・など諸説あるものの、どれも神性に関わる由来であり、いずれにせよ熊野の呼び名が初出する奈良時代には、熊野=神妙の地が確立されていたのかもしれませんね。

 

「熊野三山」 当然ながら山の名前ではありません。「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」「熊野那智大社」の三社を総して このように呼びます。 一般的に神社を “山” で呼び習わすことはありませんが、熊野三社は奈良時代から仏教の影響を受け、神仏習合、修験の聖地ともされたため、山号的な呼び方となっています。

それら三山の創建は由緒・伝承に基づくならば 甚だ古く、いずれも弥生時代の後期から古墳時代中期とされますから、仮にそれを事実とするなら、日本最古の社とされる奈良県桜井市の “大神神社” に逼る歴史を持つ社といえるでしょうか・・。 (大神神社の創建は “神代” ともされていますが、歴史学上、神代という年代は存在しないため、事実上 弥生〜古墳時代辺りかと・・)

ともあれ、こうした時代の原始の神様を母体に勃興した三社は、位置的に近かったこともあるのでしょう。 互いに密接な関わりを保ちながら仏教文化の感化を経て、独自の宗教風土を築き上げていきました。

平安時代となる頃には その神秘性は、浄土にも通ずる御利益有りと広く認知され、時の天皇、皇族・貴族のみならず一般の民草に至るまで老若男女 熊野詣でに向かう人で溢れ、その様は “蟻の熊野詣” という言葉まで生み出したほど・・。 浄土はすなわち “黄泉の国” でもあり、そこに至り また帰って来る “黄泉還り” は浄化された新たな生の獲得の証。熊野に詣でることは人生の刷新と昇華につながる道でもあったのです・・。

こうした参詣人・修験者たちが向かうために整備された道が、後に「熊野古道」と呼ばれる道であり、「紀の国北と南 寺と社に連なる二つのお話−後編」でもご案内した参詣道なのです。一般には南紀周辺の “辺路” がクローズアップされがちですが、その関連道まで含めれば、北は大阪、東は伊勢にまで広がる広大な連絡網といえるでしょうか。

 

三山 それぞれの御祭神は次のとおり

・『熊野本宮大社』 家都御子神(けつみこのかみ)
“須佐之男(スサノオ)” であると同時に “阿弥陀如来” の化身とされています。

・『熊野速玉大社』 熊野速玉男神(くまのはやたまおのかみ)
“伊邪那岐(イザナギ)” であると同時に “薬師如来” の化身とされています。

・『熊野那智大社』 熊野牟須美神(くまのむすみのかみ)
“伊邪那美(イザナミ)” であると同時に “千手観音” の化身とされています。

これら御祭神を総じて「熊野権現」と称します。 そして、これらは各社個別・独自に祀られているというよりも、三社相互に祭神の勧請を行ない、三社・・三山一体の祭祀となっているのだそうで、近隣三社といえど非常に興味深い宗教体系を成しているのです。

その特徴的な神名とともに、古代からの三社の関わり・結び付き、人々に知れる以前の古代神の姿など、熊野三山、熊野古道には無限の想像とロマンを感じずにはいられませんね。

さて 今回、拙いながら “熊野まとめ” の真似事のような記事となりましたが、続編は これら熊野三山の中から「熊野那智大社」をメインとした観光案内、南紀熊野の民話などにつなげていければと考えています。お楽しみに・・。

『熊野本宮大社』 公式サイト

『熊野速玉大社』 公式サイト

『熊野那智大社』 公式サイト

※ ご承知のとおり 現在 コロナウイルス感染症問題に関連して、各地の行楽地・アミューズメント施設などでは その対策を実施中です。 それらの場所へお出かけの際は事前の体調管理・マスクや消毒対策の準備を整えられた上、各施設の対策にご協力の程お願い致します。 また これらの諸問題から施設の休館やイベントの中止なども予想されますので、お出掛け直前のご確認をお勧め致します。

お願い:運営状況、イベント等ご紹介記事の詳細やご質問については各開催先へお問い合わせ下さい。当サイトは運営内容に関する変更や中止、参加によるトラブル等の責務を負えません。

3 comments to “黄泉還りの国の簡易チュートリアル – 和歌山県”
  1. はじめまして。
    私、一般社団法人和歌山地域通訳案内士会の和田と申します。
    主に外国人を対象に、熊野古道をご案内している団体です。
    この度、熊野古道のオンライン講座を担当させていただくにあたり、熊野の範囲を説明する予定にしております。
    https://campus.japanwonderguide.com/courses/
    こちらに掲載されている地図が最も適当で分かりやすいと思い、この地図を講座で使用させていだけないかと思い、ご連絡させていただきました。
    ご連絡お待ちしております。

    • 和田様 ご連絡有難うございます。
      そのようなご使用用途であればイナバナ.コムとしても嬉しいものと考えます。
      当該地図は当方で作成したものであり権利的にも問題ないと考えます。ご活用くださいませ。
      イナバナ.コム ROCKZOU

      • イナバナ.コム ROCKZOU様

        ご返信、ありがとうございます。
        それでは、お言葉に甘えて使用させていただきます。
        本当にありがとうございます。

        和田

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください