具志堅 聖児(ぐしけん せいじ)という名の画家さんをご存知でしょうか。 具志堅 という姓から何となく沖縄県の出自を思われる方も多いのではないかと・・。
具志堅の名は、ひとつには沖縄県 中央北部、今帰仁城(なきじんじょう)近く本部町に在った “具志堅村” という地名に由来します。 また “允(いん)” という古の琉球氏族が、この地の領主となり “允氏具志堅家(いんうじぐしけんけ)” を名乗ったことが家名の始まりとも伝わります。
現在 “具志堅” が広く知られる契機となったのは、おそらく元プロボクサー “具志堅用高” さんによるものとも思われますが、その具志堅用高さん、允氏具志堅家の分家末裔12世にあたるのだとか・・。 フレンドリーで飄々としたお人柄ですが、由緒ある家系だったのですね。(出典:Wikipedia)
話を戻しまして 具志堅聖児さん(1908〜1998年)、昭和時代に活躍された日本画家です。
明治も終わりの頃、首里城も間近の真和志村に八人兄弟の四男として出生。子供の頃から馴染んでいた美術の道を志し、昭和2年19歳にして上京、その二年後 山田真山(沖縄県出身・達磨絵や仏像彫刻で著名)を標榜しながら画業の技を磨きます。当時は “古雅” の雅号を名乗っていました。
昭和15年、当ブログでも何度か取り上げました “川瀬巴水” の同門 “伊東深水” に師事し、さらなる日本画の高みを目指しました。
しかし、彼の人生観に大きな影を落としたのが “戦争” でした。
昭和12年から日中戦争、その後のヨーロッパ戦線、第二次世界大戦、太平洋戦争と、長期に渡って繰り広げられた争いとその惨禍は、世界に甚大な爪痕を残し、日本にも壊滅的な被害をもたらしたことはご承知のとおり。
そして国内にあっては数多の空襲被害、特に大戦末期における原爆投下とともに 未曾有の破壊と悲劇を被ったのが、沖縄における焦土作戦です。 島南部を中心に大半の施設・家屋・歴史的遺産が失われ、20万人を超える死者(約半数が民間人)を出し、沖縄はその存在と形そのものを失いかねないほどの打撃を受けました。
さらに 戦後はアメリカ軍の統治下となり、国籍さえ曖昧な忍従の日々を27年間も強いられ、多くの琉球文化も変節の憂き目に曝されたのです。
〜「戦争は沖縄のすべてを奪ってしまいましたよ。あのみやびやかな風俗も姿を消した。ですから私は沖縄のかつての風俗や生活を残しておきたいと思って、戦後はそればかりを描いているんですよ」〜
後に具志堅聖児が語った言葉です。
優美で風情ある美人画で知られた、師・伊東深水の影響もあったのでしょう。素朴なタッチの美人画を具志堅も数多く描き上げ、巷の評価も高まると同時に日展などへの入選も果たしていきます。
されど 故郷 沖縄の苦難を目の当たりにした具志堅は、次第にその作品の題材に沖縄の民族・文化を取り入れてゆくことに傾倒し、描かれるのは在りし日の琉球文化と、そこで平和に暮らす女性たちが中心となっていきました。
三線を爪弾く姿、舞踊を舞う姿、日々の暮らしにいそしむ姿、彼の絵に描かれる女性たちは、しとやかに穏やかに、そして島文化ならではの明るさに満ちた佇まいを見せてくれます。
さらに、その筆致は洗練されながら変転し、同じく南洋の島々・タヒチに楽園を求めたポール・ゴーギャンの影響さえ感じられるようになり、いよいよ古の琉球文化への深化を果たしていきます。 昭和38年、雅号も “古雅” から “聖児” へと改めました。
沖縄県那覇市の「沖縄県立博物館・美術館(おきみゅー)」で、6月25日(日)まで コレクション展『具志堅聖児 日本画展』が開催されています。
郷土への想いに満ちた作品14点を中心に、同郷の画家たちによる作品、具志堅が研鑽を積んだ時代の画壇による作品など、一介の日本画展の枠に収まらない、独自の情調と郷愁に包まれたコレクション展。 南洋の陽射しに抱かれた 沖縄の古の風情を感じる稀有な機会ではないでしょうか・・。
具志堅聖児が嘆き、私たちが知る沖縄の悲劇は、上でも触れた戦中・戦後の苦難ですが・・。 時を遡れば日本国・薩摩藩による併合の歴史、日本と大陸間での緊張外交、さらに琉球王国そのものによる周辺諸島への支配と・・。
歴史はいつも単純・一面的な視点では測れない、複雑な経過と時のうねり、人の悲喜交々に満ちています。 それは 現在も変わらぬ抗い難き “人の業” なのかもしれません。
しかし、そこに生きる衆生は ただひたむきに慎ましやかに日々を生きるのみ。求めるは安寧の暮らしのみでしょう。 願わくば永き平和の内に、古からの言付けが語り継がれることを祈るばかりです・・。
参考動画 : 荒井 経 特別講義「具志堅聖児と沖縄の日本画」
沖縄県立博物館・美術館(おきみゅー)
〒900-0006 沖縄県那覇市おもろまち3丁目1番1号