史実を超えてロマンを奏でる一夜城 – 岐阜県

子供の頃・・ですから50年以上昔の話、名古屋市に住んでいました。 当然、行動範囲は中部・中京地域となりますから、たまの休みに家族で出掛ける先も名古屋市内・愛知県内とその周辺が殆ど。

名古屋は大都市であるが故に様々な施設やサービスに恵まれますが、自然に触れる行楽を求めて・・となると多少 郊外方向へ向けての移動となります。 電車やバスを乗り継いで・・また、当時我が家の愛車であった、マツダ・キャロル360を駆って訪れた様々な行楽地の風景は、今も心に残るセピア色の想い出です。

愛知県は比較的東西方向に長く、名古屋市はその西端に位置するため、どちらかというと北方向、岐阜県の方に向かうことが多かったように思います。 長良川、恵那峡、多治見・・緑に囲まれた環境には人をリフレッシュさせる力がありますよね・・。

そんな中、岐阜市のシンボル的存在でもある “金華山”、そして “岐阜城” にも何度か行きました。城郭や歴史のことよりも、ロープウェイや “リス園(金華山リス村)” の方が記憶に残っているのは子供ならでは・・だったのでしょうね。

と、いうことで、本日のカテゴリーは “城”、”岐阜城” でお送りしようか・・と思ったのですが、そこはそれ、ちょいとヘンコな性分の私、もう少しマイナーというか妙味のある城を・・と思い至りました。

で、選んだのが・・、岐阜城からもほど近い、長良川を南西方向に車で30分程下った場所。 犀川(さいがわ)が長良川に交わる合流地にそびえ立つ3重4階建ての城 『墨俣一夜城』(すのまた いちやじょう)です。

 

・・そびえ立つ? 3重4階? ”墨俣城” って名前は “城” でも、実際、砦レベルの簡素な造りじゃなかったっけ?

歴史に通じておられる方はもとより、ドラマ時代劇などで見られただけの方でも、墨俣一夜城が その名のとおり一夜で築かれた、急拵えの拠点であったことはご存知のところですね。

築城はこれまた ご存知、その機知と行動力で天下人ともなった豊臣秀吉、当時の木下藤吉郎・・。

意を通じていた義父 “斎藤道三” 亡き後、その遺領を手中にせんと美濃攻めを繰り返していた “織田信長”。 戦の進展捗々しくなく要衝地への基点築城も思うに任せぬ中・・、未だ下級武将であった木下藤吉郎は「自分であれば墨俣の川岸に一夜にて城を建ててご覧にいれまする」と豪語する。

重臣たちを分け出ての僭越な進言に、叶っても激戦必至、叶わなくば引責の死と 背水の陣を押しての作戦遂行。 しかし旧知の仲であった “蜂須賀正勝(小六)” らの援助を取り付け、筏(いかだ)を用いるなど多様な奇策を講じると、ついには墨俣に仮城を築く。

激戦・防戦を賭して この城は死守され、信長はここを足掛かりに岐阜城(当時は稲葉山城)を攻略、美濃国平定。 以後、天下布武を目指すようになり、この前後から藤吉郎も “秀吉” を名乗り出世街道を歩んでゆく・・。

 

戦国三英傑とも称される “織田信長” “豊臣秀吉” そして “徳川家康” ですが、この中で秀吉の出自だけが判然とせず、おそらくは最下級の土豪 もしくは農民の出だといわれています。 要するに最も “成り上がり” 的 “サクセスストーリー” に見合った生涯だったわけですね。

それだけに、秀吉の後の人生を分けるターニングポイントともなった “墨俣一夜城” 伝説は、彼の人となりと強運を語る絶好の物語となったのです。

なればこそ、その城は現在 目にすることのできる白き天守を構える大城であったのか・・というと、当然 そのような訳もありません。 いかに監視設備など無かった時代といえど、敵の本丸から僅か数キロの場所に大きな城など築いている余裕などなかったでしょうから・・。

 

では、現在の『墨俣城』は何なのか? と問われれば “歴史資料館” です。 墨俣一夜城が在ったとされる城跡が公園地として整備され、その中に城郭を模した天守風の建物として建てられています。立派な外観は同じ大垣市にある「大垣城」を参考にされたのだとか・・。

開城・・もとい開館は平成3年4月、言い換えれば築城以来、全く被災も城主交代も行われていない、真新しい新城と言えなくもないですが・・w

それでは 元々の一夜城と位置関係以外、何のつながりも無いじゃないかと言われるかもしれませんが・・、実のところ、そもそもの “墨俣一夜城” とは史実として、未だ判然としていないそうなのです・・。

 

ここ “墨俣” は古名を “洲股” などと書き “股状の洲” 、その名のとおり川が枝状に交わる場所の堆積地でありました。 街道や水運、布陣などの利便性を含め、稲葉山城(岐阜城)攻防のキーポイントであったのです。

 

当然、この地は その支配権を求めて、古くから敵味方入り乱れる激戦地となり、おそらくは信長の稲葉山城攻めにおいても、ここに前哨基地を築くことで、攻城の勢いを得たことは確かでありましょう。 そしてまた、当時の秀吉が目を見張る働きで頭角を現していたのも事実です。

しかし、これ程 時の趨勢を左右させ、ドラマティックな展開をみせる事件に関して、秀吉と一夜城の関わりを記した資料が皆無といえる状況なのです。

信長の事績資料といえば、近習であった “太田牛一” による歴史資料「信長公記」ですが、この中でも “それまでに在った砦を修復、一時的に利用し稲葉山城攻めに功を奏した” 旨、書かれているだけで “秀吉” の名も “一夜作り” の話も全く出てきません。

 

“秀吉による一夜城作り” の話が顕となったのは何と近世のこと。

昭和34年(1959年)愛知県江南市の旧家から発見された一群の古文書の中にこれが記されていました。 江戸時代初期に著されたという “前野家古文書” と呼ばれる文書群の内、「永禄州俣記」という史料の中で、一般に知られる “秀吉=墨俣一夜城” の話が出てくるのだそうです。

・・と、いうより、後に「武功夜話」として一般にも広まった、
これらの出典が元となって秀吉武功譚が世に広まったのではないでしょうか・・。

只、この古文書の内容には いくつかの疑義も呈されており、歴史的資料としての価値確定には、まだしばらくの時間を要するといわれています。

概して述べるなら、秀吉による墨俣城の一夜築城という伝説は、江戸時代頃から辻講(講談)によって演じられた軍談などをベースに、いくつかの事実を融合しながら培われていった伝承なのかもしれません。

信長も家康も、そして秀吉も、今持って解き明かされていない数々の謎を抱えながら、現代の私たちに今日も新たな感動をもたらしてくれています。 上でも申し上げたように、その中でも秀吉の生涯は非常にユニークでアグレッシブなもので、興味の尽きるところがありません。

大垣市の『墨俣一夜城』が たとえ史実の「墨俣城」とは異なるものであったとしても、”洲股” に立ち、秀吉とその生きた時代を今に伝える立派な “城” だと思うのです。

つとに著名な岐阜城からも間近、岐阜へ観光や史跡探訪に立ち寄られた際には、『墨俣一夜城』のことも脳裏に挟んでおかれては如何でしょう。 きっと墨俣一夜城ならではの新たな発見や楽しみが見つかるはずです・・。

『墨俣一夜城』 岐阜の旅ガイド 当該ページ

場  所 : 〒503-0102 岐阜県大垣市墨俣町1742-1

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