前回、日本では着物文化であったが故に女性の(パンツ)下着は永らく “無し” の状態であったとお伝えしました。 江戸時代には “湯文字” と呼ばれた “腰巻き” や “蹴出し” を下着的に使用していたのですが、もうひとつ、着物の下に羽織っていたものが “襦袢(じゅばん)” です。
時代劇で遊女などが着ている真っ赤な着物下(緋襦袢)・・という印象がありますが、赤い襦袢が別に遊女御用達というわけではありません。一般の人々にも広く普及したのです。
真っ赤な色合いはセクシーなイメージを想起させるため、遊女を描くのに好都合と演出で多用されますが、元々この “赤・緋色” には “魔除け” の意味が込められていました。 身体を使う仕事であるがため病気に晒されるリスクも高く、病魔退散の願いが託されていたのです。 無病息災を願う心は一般でも同じでしたので、これが広まる元となりました。
同じように、後によく聞かれる男性下着の “赤褌”、また、”大火事の時に赤い腰巻きを振り回せば類焼を免れる” という迷信も、こういったものを背景に成り立っているようで、往古から連綿と伝えられる、人の願いと祈りが生活用品にも宿っていたのですね・・。
さて、時代が移り変わり、古き時代とはまた違った形で女性たちの行動機会も増えていきます。 和装から洋装へと変わりゆく中で生活様式も変わり、それに見合った下着が求められましたが、千年からの歴史をもつ着物文化が一朝一夕に失われることはなく、西洋下着の普及には時間が掛かりました。
大きな転機となったのは戦後のアメリカ文化の流入でもありますが、この頃「女性が美しくしていられる社会こそ平和な社会」と、活動を始め会社を興したのは一人の男性でした。
名は「塚本幸一」、 太平洋戦争中、最も無謀とされる作戦 “インパール作戦” に24歳で従軍。 3人に1人が戦傷・飢餓・マラリアで絶命し、撤退中に行き倒れた遺体が累々と続く “白骨街道” とまでいわれた悲惨な状況から奇跡的な生還を遂げたひとりです。
積み重なる戦友の遺体を踏み越えて退却する。まさに地獄絵図のような戦場から辛うじて脱出できたものの、中立国タイを越え敗走を続けるうちに多くの仲間が失われ、所属していた部隊55名の内、生き残って帰国出来たのは幸一を含め 僅か3名だったそうです。
ようやく終戦を迎え、復員の帰路につく幸一の心を占めていたものは、生存と帰国への喜びよりも、「私は生きているように見えるが、実際は生かされているのだ。」という神妙の念と、「生かされ与えられた人生を、復興のために尽くす」との決意だったといいます。
しかし 終戦から10ヶ月余り、ようやく故国の土を踏んだ幸一を待っていたのは、戦前比200倍という猛烈なインフレでした。物資はことごとく欠乏し、まともな職さえなく人々はその日の生活にも不自由する有様・・。 そして、幸一に決定的な衝撃を与えたものが、亡き戦友のため、参拝に臨んだ護国神社脇の草むらで見かけた光景でした。
そこには、進駐軍米兵に体を任す日本女性の姿があったのです。 戦友が眠る社の境内で敵国であった米兵に抱かれる女・・。猛烈な怒りを抑えながらその場を去る幸一でしたが、同時に、そうしてでも生きなければならない女性の姿に、無上の悲しみとやるせなさが胸の奥から沸き起こってきます。 彼女たちをそうさせたのは敗戦であり、戦争であったでしょう。
太平洋戦争・・戦争そのものが人の行う最も愚かな行為であることを 心底噛み締めた幸一は、この後「女性本来の美しさを取り戻さなければならない」「女性が美しくしていられる社会こそ平和な社会」との想いを強くしていきます。
写真で見てもお分かりのように幸一は中々の美男子、戦前は女性との交友も芳しく、よくモテたようです。 そしてもう一つ、幸一が戦地で銃弾を受けながらも 奇跡的に無傷で済んだ同日、幸一が契りを結んでいた女性が内地で亡くなるという偶然も、幸一に、女性に対する特別な想いを抱かせる要因となったのでしょう・・。
幸一の家系は元々、繊維を扱う商家であり “近江商人” ともいわれる滋賀県近江の出自でありました。 「女性が美しくしていられる社会」の実現のため、先ずは小物の女性用装飾品を仕入れ販売する店を始めました。共に死地を潜ってきた復員者救済の想いも込めて、設立趣意書には こう記されています。
ー 終戦以来道義地に落ち 人情紙の如く、復員者の益々白眼視されつつある現在、揚子江の滔々として絶ゆる事なく、悠々天地に和す。 かの江畔に契りを結びたる戦友相集り、明朗にして真に明るい日本の再建の一助足らんと、ここに婦人洋装装身具卸商を設立す。 ー
屋号は「和江商事」 後の国内ランジェリーメーカー最大手「ワコール」の前身です。
あらゆる日常品が欠乏する最中、まっ先に必要な生活必需品でなく、装飾品など いわゆる贅沢品を商具として選択することは、当時 ある意味 冒険でもありましたが、幸一は持ち前の度胸と血筋ともいえる商才を駆使して事業を推し進めていきます。
・・とはいえ、嵐の如き世情の中で 利益を上げ業務を維持してゆくことは容易ではありません。 顧客の獲得どころか仕入先・製造元の開拓、収益・支払いの調整、当時 猛烈な勢いで構築されていた税制強化の対応まで、常に先頭に立って渡り合っていくものの、経営は常に不安定に晒されていました。
景気や流行に流されず常に需要が見込めるもの、洋風・合理化が進むこれからの社会で女性に必要とされるもの・・。 会社としての経営安定と未来に向かう発展の礎を探していたとき、ふと持ち込まれた異形の品物に幸一は惹きつけられたといいます。
針金を蚊取り線香のように巻き上げ、山のように膨らませたものを綿と布カバーで包んである・・。 それは女性の胸部補正に用いる “ブラパッド” でした。
〜和装は減少し洋装が一般化する。和装では不要だったバスト周りの補正にブラパッドは必ず売れる!~ こう踏んだ幸一は 二もなく業者と契約を交わしたばかりか、無謀を承知で夜行列車を乗り継ぎ、東京、それも銀座のど真ん中に自ら乗り込んで売りさばいたのでした。
これを契機に「和江商事」は女性用 内装衣料品の扱いに舵を取り、業績を伸ばしていきます。 起業から3年後の昭和24年、商号を「和江商事株式会社」に変更、まだまだ安定軌道に乗り切れない経営に指標を建てるべく翌年には「50年計画」を策定。 次第に大手百貨店などとの契約を結び発展の道筋を固めていきました。
昭和32年には商号を『ワコール株式会社』へと変更、未来永劫に渡って “和江” の名を留める “和江留” を標榜したものだそうです・・。
「Wing」「une nana cool」など多くのブランドを持ち、 “ゆりかごからゆり椅子まで。女性の美をトータルでサポート” する一大衣料グループ『ワコール』は、こうして歴史を刻んできました。 当然、その道程は決して平坦なものではなく、時に苦しみ、時に足掻きながらも築き上げてきたものです。
そして そこには “新しい時代に生きる女性のあり方” を求め追求してきた創業 塚本幸一と、それを支えてきた仲間、女性たちの情熱が息づいていたからに他なりません・・。
幸一が望んだ「女性が美しくしていられる社会こそ平和な社会」とは、言い換えるなら「平和な社会を維持し続けることこそが、皆が輝けるための最善の策」とも言えるのではないでしょうか・・。