葉脈探して鉱脈発見 人の妙と釜石鉱山 – 岩手県

八代将軍 徳川吉宗公 といえば “米将軍” “享保の改革” “町火消しの設置”、 または “像の輸入” だの “蘭学の解禁” だの、幕府の長としては結構アクティブに行動されていた方のようで・・。
その辺の闊達さが後の講談や演劇に引き出され、挙げ句 将軍自ら立ち回りを演ずる「暴れん坊将軍」の下地となったのかもしれませんが・・。

実際の人物像や行政の成果はともあれ、好奇心旺盛・柔軟な思考をお持ちの方であったのは事実のようです。 蘭学の導入も元々自らの興味の対象であり、”小石川養生所” の設置も貧民救済のためであると同時に、薬学への興味の延長線上にあるものでした。

健康維持への意識も高く、柔術を用いた鍛錬と飲食の節制を欠かさなかったとか・・。真偽は不明ですが、自ら薬研(やげん)をもって生薬作りに勤しんでいたなどの逸話が残っています。 傍ら熱帯産であるサトウキビやサツマイモの本土導入にも力を入れていました。

 

薬草の探索・発見、その同定や体系化まで求め(現在の長崎県)対馬藩に命じ、朝鮮半島にまで調査特使を派遣していた吉宗公。 異国の薬草研究とともに、いわゆる朝鮮人参の日本帰化を目指していたといわれ、日本の土壌に根付かせるまで様々な試行錯誤が行われたのだとか・・。

当然ながらその情熱は国内に対しても向けられていました。公的、時には私的な契約で全国各地の薬草を探索してまわる御用人を雇われていたといいます。

“お庭番” といえば、庭の木陰に潜みながら上役と秘密の会話を交わし、影のように消え去っては隠密行動を為す忍者・・のようなイメージですが、これを創設したのも吉宗だと言われています。(本当に色々なことする人ですねw)

いわゆるイメージの忍者かどうかは別として、市中、時に遠国の情報を収集、将軍に直接 報告する特殊な役職であったことは確かなようで、普段はその名のとおり “庭番所” という、一見 閑暇な所へ詰めていました。

その中のひとり植村政勝(通称・左平次)も、元からの薬草知識を買われ、吉宗の命に従い30年にわたって “採薬使” として諸国を巡り歩いたそうです。 諸国間の行き来が自由でなかった時代、隠密ならではの行動力ですが、ここまでくると忍者というより植物・薬学者ですね・・w。 ドラマのように後から口封じされるでもなく、江戸に戻って退職、余生を過ごされました。

 

さて、あまりに吉宗公絡みの話が続いたので、少々 話の流れを変えなければなりません。本日は江戸の話でも紀州の話でもなく陸奥国 岩手のお話なのですから・・。

阿部友之進(あべ とものしん) 本名:阿部照任(あべてるとう)(字が異なりますが、その姓名と岩手の出身ということから平安期に隆盛した安倍氏の末裔のようにも思えますね)  本草学(現在でいう博物学)を成業し、本草家 阿部氏の祖ともされることから別称 将翁(しょうおう)とも称されます。

現在の岩手県盛岡市山田町の出身であること以外、生年さえ不明(一説に慶安3年(1650) また 寛文7年(1667)とも)、その前半生はある意味謎に包まれています・・。

Wikipedia に掲載されている一文・・

” 延宝年間に大坂に向かう船が台風で難破し、清国に流れつき清国で医術、本草学を学んで帰国したとされる説(東条琴臺の『先哲叢談続編』)や、密航して清国に渡った説、長崎で清国人、オランダ人に本草学を学んだする説などがある。”

・・のどれかが事実だとすると、かなり波乱に富んだ青年期を送っておられますね・・。

22歳の時に故郷を発ち、その後長きに渡って行方知れずであったことは確かなようで、何れにせよ、進んだ異国レベルの医学・本草学を修得して帰国、長崎・熊本に落ち着いていた阿部友之進。

この人も吉宗公の時代、幕命を受けて薬草調査のため各地に足を運んだ民間の採薬師でした。 出仕したのは何と72歳の時だったと云われます。

 

野呂元丈、丹羽正伯 といった同じ本草学者や、上でもご案内した 植村政勝ら僚友とともに全国各地の踏査に赴いた阿部友之進でしたが、彼が郷地 岩手を訪れたのは着任から6年後78歳のときだったといいます。

そして、その2年後 享保14年(1729)、友之進は再び岩手に来訪しているのですが・・。
どうも、友之進、この岩手での調査においては、初回の時から とあることに気が付いていた様子です。

とあること・・、それは 磁鉄鉱鉱脈の存在・・。

明確な記録が少ないため詳細が不明ですが、伝えられるところ

「甲子村 久子沢 近辺の調査をしていたとき、急に磁針が特定の方向を指し続けたので、付近を行き来して その指す方向を調べたところ黒い大岩に行き当たり、地表に現れた磁鉄鉱の脈であることを知った。[磁石岩]と名付けた」 ・・という話が残っているそうです。

実は このとき友之進は代官所により “咎” を受けています。”咎” =罪状、実際には一時軟禁という軽微な処分であったようですが・・、どういうことかというと・・、

盛岡藩においても鉄鉱脈のことは以前から何となく把握はしていたものの、開発に踏み切れておらず・・、かと言って幕藩体制下にあって藩・領国の資源は重要問題。 “あまり勝手に表沙汰にしてくれるな・・!” といった感じではなかったのでしょうか・・?

 

ともあれ、阿部友之進によって発見・顕にされてしまった釜石の磁鉄鉱、この時は藩によって有耶無耶に処理されていますが、結果的に この5年後、在郷の有力者が鉱山の開発を許可・委任され、その後 数十年のうちに鉱石の採掘、高炉の完成、銑鉄の増産と、釜石製鉄産業の礎を築くこととなりました。

明治から昭和にかけて日本の近代化に大きく寄与した “釜石鉱山” の始まり、その一端は、こうして一人の植物学者による偶然の発見から始まったわけですが・・、ここで 余話を少しだけ・・。

盛岡藩は以前から何となく鉄鉱脈を把握していた・・というのは、そもそも、この地は以前から “砂鉄” がよく採れた地でもあり、少量・低品質ながらも鉄の生産地であったそうです。

阿部友之進 より半世紀ほど前の話ですが、このとき、砂鉄採取の事業を興したのが遠野出身の “川原屋清助” という人、そして彼を手伝い 当時の製鉄事業を軌道に乗せたのが、(以前、当サイト民話記事で取り上げた) “吉里吉里(きりきり)善兵衛” だったそうです。 「吉里吉里善兵衛-前編」 「吉里吉里善兵衛-後編」

画像 © Wikipedia より

吉里吉里善兵衛、実名・前川善兵衛 は郷土の豪商であり篤志家でもありましたが、このようなところで、話がつながってくるのも、また面白いところですね・・。

今は過日の輝きとなり、近代化産業遺産に認定された「釜石鉱山」ですが、その歴史と製鉄の輝きは現在でも『釜石市立 鉄の歴史館』でご覧になれます。 当地を訪れる際には、お立ち寄りになられるのも良いのではないでしょうか?。

『釜石市立 鉄の歴史館』 釜石市 当該ページ

場  所 : 〒026-0002 岩手県釜石市大平町3丁目12番7号
利用時間 : 9時~17時(最終入館は16時まで)
休 館 日 : 毎週火曜日定休 12月29日~1月3日
問い合わせ : TEL 0193-24-2211 FAX 0193-24-3629

 

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