中々 終幕の見えて来ないコロナ禍とそれによる経済的なダメージ、遠国とはいえ彼方から届く戦争の悲惨な姿、そして頻発する自然災害や事故のニュース‥、 出来ることなら目にも耳にもしたくない、酷い出来事や閉塞的な状況に触れ続けていると 気分も沈みがちになってしまいます。人は生きているだけで楽しいことや嬉しいこともある反面、辛く悲しい事実をも知らなければなりません。
それでも、歩く先にはきっと希望の光が有ると信じて、互いに助け合い生きてゆく・・。勿体ぶった言い方ですが、それが人生というものなのでしょう。
.しかし、そうした人々の生き方とは相容れず 独り隔絶の道を歩む人も少数ながら居るのも事実で、それは今も昔も完全には消し去ることの出来ない 社会の歪が生み出すものなのかもしれません。
古くは そういった人達のことを渡世人と呼びました。
現代であれば反社会的勢力ということになるのかもしれませんが、明治・大正以降に新しい組織体制を構築していった組織団体と異なり、江戸時代を通して存在した渡世人の多くは 各自領を”シマ” として采配をふるった博徒や的屋の集団でもあった訳です。
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一定の家分に属さず それら”シマ” を伝に各地を歩いた(いわゆる)無宿渡世人を”渡り鳥” “股旅” などと呼び、その中でも特に任侠に篤かったとされる者は度々、講談や演劇、映画の題材とされてきたことは皆様もご承知のところですね。
大きく一家を構えた 幡随院長兵衛、清水次郎長、大前田英五朗 は知られたところながら、ここ群馬県、上州の地で比類なき人気を誇るのは、やはり 国定忠治、令和の時代になっても その名に翳りは見えません。
今から約200年前の文化7年 上州 佐位郡国定村に生を受けた忠治、生家は姓を持つほどの豪農であったそうですが、 不作と重税が重くのしかかる時勢の中、父親の病気・他界に伴って傾いてゆく家運を背負い辛酸を味わう少年期であったと伝えられます。
そんな忠治が ある日知り合った人物が 日光の円蔵という博徒、この時 戯れに受けた恩義が忠治のその後の人生を決定付けてしまいます。
博徒・渡世の世界に足を踏み入れた忠治は 持ち前の度量の大きさを武器にその名を轟かせてゆくわけですが、当然ながらそれは世間から見て はみ出し者の道、堅気の人生を送れるはずもありません。
数々の逸話を残しながらも嘉永3年(1850年)8月 故郷の近郊に潜伏していたところを捕縛され同年 刑場の露と消え果てます。
いかに人気があろうとも博徒であり、現実においては刃傷沙汰をはじめとした多くの罪に手を染めていたであろう 忠治が今もなお任侠として知られているのは、天保の飢饉にあえぐ地元の領民に対して 私財を投げ打ちこれを救済したという話が元となり、他の男前逸話も含めて伝承から後の講談へと昇華され、大権に立ち向かう孤高のアウトローとして人々の共感を誘ったからでしょう。
救済と言っても元は人様からかすめ取った金、盗んだ金であったでしょうし、多くの逸話も後年 創作されたものも少なくないので、興行で語られる事が全て真実とは限りませんが、単なる渡世人が訳も無く美化され続けるはずもなく、また 史実の忠治がその逃亡の最中 多くの農民に匿われた事実から見ても、やはりひとかどの人物であったのだと思われます。
さて、時代は下って昭和も40年代、ひと通り普及も終えたテレビを舞台として新たな渡世人ヒーローが世に出ました。
「あっしには関わりの無ぇことで」のセリフで世に知られた「木枯し紋次郎」その人です。
「国定忠治」と違って こちらは完全に架空の人物、小説家 笹沢 左保(ささざわ さほ)氏による創作ですが、登場以来 視聴率30%を越える大ヒット作となり 半世紀近く経った今でもテレビ時代劇の名作として語り継がれています。
制作に関わった 市川崑 氏をはじめスタッフのこの作品に対する思い入れと打ち込みようは並々ならぬものであったようで・・
それまでの任侠物の定番であった義理人情に苦闘するスタイルと異なり、あくまで人との関わり合いを避けながら自らの到達点を探し求める、しかしながら訪れる各地で避けきれぬ人々との関わりを織りなしてゆく ニヒルで孤高の主人公像を見事に描き出しています。
明るく力強い上條恒彦さんの歌声と、時代劇音楽の常識を打ち破った「だれかが風の中で」も当時の視聴者を面食らわせながらも その後多くの支持を集め、昭和を代表するテレビ主題歌の一曲となっているのはご承知のところですね。
しかし、これほど熱気に包まれた作品と言えど、また 架空の設定と言えど、主人公 紋次郎の出生と人生もまた悲惨なもので、芥川隆行 氏によるナレーションでもそれは語られています。
「 木枯し紋次郎 上州新田郷 三日月村の貧しい農家に生まれたという
十歳の時に国を捨て その後一家は離散したと伝えられる 天涯孤独な紋次郎 なぜ無宿渡世の世界に入ったかは定かでない 」
国定忠治 にせよ 木枯し紋次郎 にせよ時を越えて語り継がれる任侠時代劇のヒーローですが、同時にそれは決して人並みの人生を歩めていない事をも意味します。
孤高ゆえに人の胸を打つ物語を紡ぐのも事実ならば、そこに多くの人々の人知れぬ涙や苦しみが埋まっているのもまた事実なのです。
上州は養蚕で賑わった地ゆえに、男性の地位と意気の低下を招き 結果的に博徒文化を発達させてしまった歴史があると言われていますが、人の本来求めるところは幸せな人生であり 金銭に囲まれた人生ではないはずです。
されど、どうしようもなく苦難の人生に巻き込まれてゆく事もある訳で、それでも垣間見せる忠治や紋次郎の人情は 幼き日に父母から授けられたものなのか、はたまた人とのふれあいの中で会得していったものなのか・・
ドライで合理的な思考ばかりが目立つ現代、人間形成に本当に大切なものとは何なのか・・ 今だからこそ もう一度考えるべき時に来ているのではないでしょうか。