NANONOと天満与力の時代 – 大阪府

「え〜 毎度 馬鹿々々しいお話を・・」といえば “落語” の枕、その始まり・振り出しの部分。 その言葉のとおり、普通ならあり得ない・・否、もしかしたら通常の暮しの隅々に見え隠れする、奇矯な言動や振る舞いを面白おかしく語るのが落語の醍醐味。

そればかりか、そこに風刺や人情を巧みに織り込み、聴く者を引き込んで離さないのは まさに話術の妙と言えるでしょうか。

「毎度 馬鹿々々しい」は落語を指し示す端的なワードですが、これをそのまま使うのは、どちらかというとまだ枕に工夫を凝らせない(凝らすべきではない)前座や二ツ目※の時・・。 年季が入るごとに “演目” そのものの語りに磨きがかかるとともに、枕の部分にも様々な変化や味わいが出てくるもののようです。 ※ 落語家の位(見習い→前座→二ツ目→真打ち)

しかし、”やはり基本は大事” と一流・名人の境地に至ってなお、この “枕の振り出し” を大事に・巧妙に用いられる師匠も少なくないようで・・。

 

食の都、そして笑いの都として知られる大阪。
その大阪(また京都)で育まれた “上方落語” において “爆笑王” とまで呼ばれた二代目「桂枝雀」師匠も、そんなおひとりでした。

画像 © 上方落語協会

変化自在、突飛な仕草や変顔?、表現の機転を活かして観客を笑いの渦に巻き込む師匠でしたが、”基本” を何より意識しておられたのも また事実のようで・・。

「えぇ〜・・ またしばらくのあいだ お付き合いを願いたいのでございます・・」

こんな何気ない振り出しから一度 話しが始まると、そこはもう師匠の術中の内というわけなのでしょう・・。

 

そんな師匠が得意とした演目に『佐々木裁き』という話があります。

“佐々木信濃守(ささき しなののかみ)” という辣腕で知られた名奉行が、出先で見かけた やんちゃで利発そうな子供(四郎吉)を意に留めます。 親子・町役ともども奉行所へ呼び出したあと、お白州で繰り広げられる “掛け合い” は、賄賂渦巻く公職腐敗への風刺と、大人の常識をやり込める子供の機転を描きながら、ついぞ笑いの絶えない名作といえるでしょう。

吟味の終了後、四郎吉の機転と豪胆さに舌を巻いた佐々木信濃守が綱五郎(四郎吉の父)にかけた「そなた エラい(とんでもない)息子を持ったのう・・」の一言が、この話を笑いと人情のうちにまとめていますね。

人気の高い演目であり、上方・江戸落語ともに細部を変えながら上演されます。
物語の舞台・四郎吉らの在所は、上方落語では天満界隈、江戸落語では新橋界隈となっていて、住友の浜の材木置き場など、当時の風情を伺わせる語りも見逃せません。

因みに、枝雀師匠の語りでは・・

「佐々木信濃守・・、少ぉし発音がし難いのですが、どうしてかというと、この “し・な・の・の” と言うところが “NANONO“!と “N” が三つも・・」

だそうで、こういったウィットは何処から湧いて来るのか!? ・・これも匠の技というやつですかね・・w。

 

ところで、この “佐々木信濃守”、江戸時代末期、嘉永年間を中心に実在・活躍されていたお奉行さまだそうで、何故 落語の題材とされたかは不明ですが、その人生・職歴は誠に立派・・というか 大したものであったようです。

本名を 佐々木 顕発(ささき あきのぶ)、地方の下級役人・手代の子として生まれ、元々 “士分(侍)” ではありませんでした。(手代は村役人(一般人)などから選ばれる)

しかし、才気に溢れていたのでしょう。単身 江戸に出ると幕府の重要な事務方に縁を得て、武家奉公人となり士分への道を開きました。 器量が認められると 主人の後押しで “徒士(かち・下級の行政士分)” の者の養子となり、正式な御家人の一人へと至ります。

持ちたる才能を開花させたのか、その後はトントン拍子に出世、勘定方や評定方の職掌を経て、25年後 45歳の年には、ついに奈良奉行に任官し従五位に叙され、このとき信濃守の官位も受けています。

以降、大阪東町奉行(上方落語では大阪西町奉行)、小普請奉行、勘定奉行、そして江戸・東西の奉行、果ては 外国奉行までをも歴任する出世ぶりであったのだとか・・

庶民の出でありながら 信じられないほどの武家エリート街道、何をもって彼がここまで出世人生を踏み外さずに歩めたかは不明ですが・・、あくまで一考に、当時 幕末も間近の頃、それまでの士分による封建体制は、慢性的な財政難 そして来航船などの外圧によって崩壊への道を歩みはじめていました。

棒給は減らさざるを得なくなり、政情不安定の中 人材に事欠くことも少なくなく、最早 古くから続いてきた家格や慣習にこだわっていられない実情となり、才能と勤勉が認められれば、高職であろうとも登用する状況であったのではないでしょうか・・?

実際の佐々木信濃守顕発が、どのような人格であったかは不明ですが、数少ない資料からは非常に真面目に務められた面影が伺えます(幕末史年表など)。 同じ奉行職であっても “大岡越前守忠相” や “遠山大隅守景元(金四郎)” らのように著名ではありませんが、昭和42年放送の大河ドラマ「三姉妹」の中にも登場人物としてクレジットされています。

 

落語「佐々木裁き」の中では、蔓延する贈収賄の風習を一掃したい信濃守が、知恵少年・四郎吉との問答を利用して、部下たちに綱紀粛正を促すという展開でした。

つまり、こんな話が出来上がるほど、当時の庶民が行政・支配体制に抱いていた不信感は小さな火でありながらも根強く、それが勤勉・有能で知られた “佐々木信濃守” に仮託されたとしても不思議ではありません・・。

物語の最後で信濃守は、四郎吉を十五の歳になると養子として迎え入れることを申し入れ、後に四郎吉は著名な “天満与力”(奉行所の上級職)に出世するという展望で幕を閉じますが(上方落語)。 言うに及ばず これは自らが辿ってきた人生をも重ね合わせた判断でもあったのでしょう・・。

四郎吉 与力のその後の人生は定かではありませんが、時は既に幕末から明治に移りゆく時代、武士による統治の終焉の時でもあります。

しかし、これほど機知に富み、名奉行の心さえ掴んだ四郎吉であれば、どんな時代でも力強く生きていったのでしょうね・・。
それでは、文末となりましたが、桂枝雀 師匠による 『佐々木裁き』 、お楽しみ下さい。 期間限定でございます・・。

 

 

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