伝承は現と虚の間で生まれ実を結ぶ(壱)- 秋田県

ようやく秋らしい気温となってきましたかね。今週から来週にかけて秋田県から “妖怪” や “大力”、 そして少々時代の若い明治時代の民話をお届けしたいと思います・・。

「産女(うぶめ)」という名の妖怪があります。

名のとおり “産の女” つまり “妊婦さん” にまつわる霊的な存在なのですが、その元の多くは、身籠りながら亡くなった女性や、出産に絡んで母子ともに失われた命など、実に悲しくやる方ない設定が付されています。 他に語られる「子育て幽霊」などもこの類型のひとつと言えるでしょうか・・。

中国の古い物語に、乳幼児をさらう「姑獲鳥(こかくちょう)」という妖怪があり、日本に語り伝えられて「産女」の話と混交してしまったために、姑獲鳥 の読みにも(うぶめ)が充てられるなど一種の習合状態となって、「産女」にまで子さらいの性状が語られましたが、元々は別種の異なる存在だったともいわれています。

どちらにせよ、明確であり現実なのは、古い時代(現在でも一部ではそうですが)女性の “出産” というものは、まさに命懸けの一大事であったということでしょう。

医療体制など言うに及ばず、衛生状態や栄養状態さえままならない中で、新しい生命を産み落とす作業は、一つ間違えば死と隣り合わせの難事であったに違いありません。 それだけに、母子とも無事に出産を終えた喜びはひとしおであったと思われますが、・・その喜びに至らず、失われた生命もまた数知れないのが事実なのです・・。

ともあれ、この「産女」は妖怪として時折 現世に現れるのですが、その性状のひとつに “道行く者に声を掛け、抱いている赤子を預ける・・” というものがあります。

妖怪と気付かないまま母親の頼みを引き受けて、一度 赤子を抱いてしまうと・・、ふと見ると母親の姿が何処にも見えない。自分と赤子だけが取り残されている・・。

乳飲み子を放り捨ててゆくわけにもいかないので、母親が戻るまでと そのまま抱いていたり育てたりしていると、どういう訳か赤子は異常に重くなり続け、終いには支えることが限界になるほどまでに育ってしまうのだとか・・。

そして、もうこれ以上は無理、自分が押し潰されてしまうと思った刹那、母親が現れて赤子を引き取ってゆく・・。そして その後、抱かされた者には幸福や大力の能力が授けられるのだそうです・・。 ※ 背負う→重くなる、のは “子泣き爺” や “おばりよん” の話と関連していますね・・

 

つまり 人に福をもたらすという点で、妖怪であるとともに “神霊” にも近い存在でもあり、この「産女」にまつわる話は各地に残っているのですが・・、 本日は、秋田県の五城目(ごじょうめ・古くは五十目)に残る、実在の人物になぞらえたお話をお届けしたいと思います。

『四ツ車 大八』

時は江戸時代の中頃 出羽国五十目の地に “永蔵” という子がおった

親に従い 早くから造り酒屋の奉公人として働いていたが
幼い頃から人一倍 体が大きく 力自慢でもあったそうな

そんな永蔵も年頃になったある日 主人の言いつけで秋田のご城下まで年貢米を運んで行くことになった

人手も足らぬので ひとり荷車に米俵を山と積んで
任せておけ とばかりに颯爽と引いて出掛けて行ったのだが・・

 

はたして村一番の力持ちというべきか 人手三人四人はかかろうかという荷車を
はじめのうちは軽々引いておったものの いつしか額に汗するようになり
峠にかかる頃には息を切らすようになってきた

中程に来る頃には 歯を食いしばって引き続けたものの
ついに峠の途中で音を上げ立往生してしもうた・・

やむを得ん ここらで一息つけようと思うたとき
荷車の影からカラカラと笑い声が聞こえてきたと

「アハハハ 何たら弱っちいんだべ・・」

見ると いつの間にやらついてきた童しが こちらを指差し笑うておるではないか

村の奉納相撲でも一度も引けを取ったことがない永蔵
童しの言うたこととはいえ これにはムッときた

「わりゃ 何処んガキじゃ? そんなこと言うならわれが引いてみぃ」

すると童し
「ほれきた! こんな車なんぞ造作もねぇ 小指で引いてみせたるわ」とほざきよる

なんという口の減らねぇ童しだと思いながら永蔵が見ておると・・

驚いたの 永蔵の目の前で童しっ子 小指一本 荷車に掛けると まるで葦の葉でこさえた空車でも引くかのように スルスルと坂道を登って行くではないか

 

これは 只者じゃねぇ 恐れ入った永蔵は童しの前に突っ伏したと

「失礼しやした どうかお名前を教えてけれ」

すると童し 今しがたまでの おぼこ顔も何処へやら 急に威厳を帯びると

「ワシは三吉の霊神じゃて 近頃お前は少しばかりの力を鼻にかけ いい気になっておる」
「そのようなことでは この先大成は覚束ぬ 本当の大力欲しくば 我が太平山に上がり精進せよ・・」

これだけ言い終えると 童しの姿はかき消すように消えてしもうたと・・

 

永蔵は力を振り絞って峠を越え ご城下に年貢米を納めると その足で太平山へ向かうたそうな

山へ登り三吉神社に着くと 堂に頼んで七日七晩 参籠し 水垢離を賭して精進潔斎に励んだ

やがて満願の日の夜を迎え 虫の音さえ届かぬ境内に座り込み
ひとり験(しるし)の現れるのを待っておったが 何ひとつ現れる気配もない

既に冬はそこまで来ている季節 山中の寒さはことのほか永蔵を責め立てる
寒さに身を凍らせながらも じっとこらえ いつしか丑三つ時にもなった頃か・・

何やら人の気配がする・・ 暗闇の中 目を凝らして見ると
いつの間にか 拝殿の前に 赤子を胸に抱いた おなごが立っておるではないか・・

おなごは神前を向いて何やらつぶやき また額づいておる
このような山中で おなごが赤子とともに丑の刻参りとは よほどの理由があるのかしらん

永蔵はそう思いながら しばらくの間 ぼうっとその様子を眺めておったと・・

 

いささかの時が経ったであろう おなごは ついとその場を立ち永蔵の前にやってきた

ハッとしてそのおなごを見上げると

「申し訳ねぇだども この子を少しの間 抱いてもらえんかの・・?」という・・

襟元でも直したいのじゃろうか・・? と思うた永蔵

「あぁ そんくれえなら訳もねぇ そんなら ちょっくら抱いててやんべ」と預かった

母親の胸を離れても すやすやと眠る赤子 おぼこいもんじゃのう・・と 顔を緩ませた永蔵じゃったが

ふと見上げると 今 目の前におったはずの おなごが何処にも見当たらん・・

ありゃ?何処に行った? 用でも足しに行ったのかの?

訝しがる永蔵をよそに おなごはいつまで経っても戻ってくる気配もない・・

さても これは困った事になったのう・・

悩む永蔵じゃったが そのうち別の事が永蔵を悩ませることになってきおった

時とともに赤子がどんどん重うなってきよる・・

こりゃどうしたことじゃ? と首を捻っている間にも重さはどんどん増え続け
今はもう石の地蔵さんでも これほどとは思えんほどに・・

どうしたものか 母親はどこへ行った?
さりとて すやすや眠る赤子を冷えた地べたに置くわけにもいかず
そして これしきの重みに負けてなるものかと歯を食いしばり頑張っておった

それでも 腕にのしかかる重さはますます増え続け 永蔵は満身の力を振り絞って赤子を支えておったが もうどうにもならん

あまりの重さに とうとう気も遠くなりかけた その時

「あれ これはすまなかったし・・ 有難うござんした」

おなごの声がした

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三吉神社 山頂の奥宮 画像 © 太平山三吉神社総本宮

やれやれ、ようやく山の頂まで来て精進潔斎までしたのに、出て来たのは三吉の神様ではなく “産女” であったようです。 如何に力自慢の永蔵といえど、超常の力量相手では適うはずもありませんね。

伝承どおりなら、新たな力を授けてもらえるはず。 この後の永蔵については次回に引き継ぐこととして、文頭でも申し上げましたように、実在の永蔵についても少しだけ触れさせて頂く予定です。

また、今話とは少し趣向が異なりますが、今回と同じく「我慢」に類した明治時代の民話に一編及びたいと考えています。 お楽しみに・・。

『太平山三吉神社』 公式サイト

 

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