渡波に伝承紡ぐ二つの神遣い(狐)- 宮城県

宮城県 万石浦、先日のお話よろしく江戸時代には多くの塩田が開かれ(産業として昭和前半期まで続きました。)潮干狩りや、その後 “牡蠣” の養殖などで賑わった、石巻市と牡鹿半島に囲まれた海跡湖です。 古くは “奥の海” などとも呼ばれました。

前回は万石橋が架かる 渡波(わたのは)から、”白鳥” という 渡り鳥に掛かる神使のお話を前回お伝えしましたが、本日は その白鳥を祀る “鳥浜神社” からもほど近い場所・・。
そうですね・・、歩いても10〜20分位でしょうか、同じ渡波の古くは下伊勢谷地(しいせやち)と呼ばれた地の「宮殿寺」にまつわる “狐” のお話をご案内させていただきます。

室町時代の開基とも伝わる「宮殿寺」は禅宗のお寺として、永代 地元の尊崇を集めてきましたが、この宮殿寺の少し北側に小さな池がありました。

この池の畔には古くより一基の祠があって、そこには “白山妙理大権現” が祀られており、それは宮殿寺の守護神として代々 大切にされてきました。 特に寛政時代、九世大和尚 “円戒” にあっては厚く信心を手向けられていたと伝わります。

そして その頃、その祠のたもとに一匹の “狐” が住み付いていたそうで・・、名を “お菊狐” と呼ばれていました・・。

 

ーーーお菊狐

その狐が権現さまの祠で見受けられるようになったのは いつからであろうか
白くしなやかな体で 村の木々の間 浜の小舟の影などに見え隠れする

“お菊” と後に呼ばれるようになるが それは元々 狐そのものの名ではなかったし
狐が化けた女御の名でもない

そもそも 大抵の村人たちには その姿を見ることが出来なかったので 祠に住み付いていることさえ知られておらなんだ・・

この白狐を見ることが出来たのは 近くに住むひとりの老婆 “お菊” であった
そう ”お菊狐” とは この老婆をして後に名付けられた呼び名なのだ

お菊は宮殿寺の門前で 庵のような簡素な家にひとりで住んでおった

宗主 円戒和尚の教えに心より帰依しており 寺の簡易な雑事や和尚の身の回りの世話など長年に渡り奉公しておった

誠に信心深く・・ その信心深さゆえか 白狐はお菊にだけは その姿を見せていたのだそうな

海に面する渡波は漁が盛んで 浜辺には多くの魚が水揚げされており
おかげで白狐も食うに困らず 日々健やかに過ごしておったと・・

 

ところが ある年のこと 巡りでも悪いのか 陽射しが上がらず凶作となった
加えて海の方も不漁続きとなって 浜の落ち魚もとんと無うなってしもうた

白狐も口にするものが無うなって困り果てた
あまつさえ その頃 白狐は身籠り やがて七匹の子を生んだ

食うに事欠いた白狐は 見る間に痩せ劣り その姿は見るも哀れなものに・・

この有り様に心を痛めたのが お菊であった

お菊は寺の庫裡を任されていたので 日々の惣菜の切れ端など捨てるものなどから
いくらかを祠の前にそっと供え 和尚から聞き覚えた “施しの呪文”「右転左転玉盤に走る・・」と唱えておいたのだそうな・・

おかげで白狐は食い繋ぎ 感謝を表すように お菊の回りに擦り付いていたが・・

それでも子狐たちが乳を離れ 大きくなるにつれ いよいよもってお菊の施しでは足らなくなり・・

ついに人の姿に身を化かし餌を求めるところに至ったそうな・・

 

地元の分限者の家で大法要が行われた

ところが逮夜の晩 客も膳も揃いきらぬうちに早々と和尚が見えられ仏前へと座されたと・・ 皆は慌て和尚の後ろへ並び座ったが・・

この時 請われて膳の支度に手伝いに来ていたお菊は ひと目で和尚が白狐の化けた姿であることを見抜いたとな

子の食い扶持のためとはいえ 和尚に化けたのが顕となれば 人ばかりのこの場 ただでは済むまい されど和尚の姿に声をかけるわけにもいかず ハラハラと気を揉むばかり・・

そのうち膳立ての頃となり ついに本物の円戒和尚が参られた

どうなることかと気が気でないお菊に 普段と異なる心の乱れを見た和尚は
柱の影から仏間を伺い すぐさま事の次第を理解したそうな

徳の高きは学理のみにあらず融通無礙 機転を利かせた和尚はしばらく厨(台所)の裏手に身を隠し 白狐和尚の退席に合わせて上手く入れ替わったと

ようよう首尾よく膳の一部を手にして屋敷を出ようとした白狐和尚・・

だが その時 獣の匂いを嗅ぎつけた番犬にけたたましく吠えられ 挙げ句 乱闘となった

 

白狐は餌を持ち帰るの一念で 化身を解かぬままに争い ようやくその場を逃れたと

大声で吠える番犬に 家人たちはふと気を取られはしたものの
既に膳部もほぐれ宴もたけなわとなっていたため 何とか事無きを得たそうな・・

どうにか胸を撫でおろしたお菊であったが 白狐が無事にねぐらへ戻れたか気にかかる

仕事を終え 祠の脇に駆けつけてみると案の定 犬に噛みつかれて大怪我をしており
お菊はすぐに手当てを施してやったのだと

その後も お菊の情によって育った七匹の小狐たちは やがて大きくなると野山を駆け巡り母狐を養ったという・・

ーーー

宮殿寺はその歴史の中で再建を受けているようです。

したがって 現在の宮殿寺が当時の地所と同じ位置なのかは不明であり、北側にあったといわれる古池も その後の地勢改変に伴い、古の姿を見ることは難しいでしょう。

白山妙理大権現の祠は画像のように “写真” で残されていますので、現在もどこかで静かに佇んでいるのかもしれませんね。

お菊や、お菊の情に触れて生き続けた狐たちはもとより、渡波の自然も村の姿も その大半は時の流れに洗い流され、その形を留めることはありません。 それでも こうして伝えられる語りや僅かに残った史跡だけが、往古の姿と風土を今に映しているのです。

そこには、単に失われた過日の影があるだけでなく、生きるものの本質、本当に大事な何かが隠されていると思えるのです。

昭和初期の宮殿寺 と 白山大権現の祠

 

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