神使(しんし)、ご存知のとおり神さまのお遣い(おつかい)です。
神の眷属(けんぞく / 眷族)であり、神の意向をもとに様々な霊験を顕し人々に恩恵を運ぶ反面、時に祟りや障害をもたらすことも少なくありません。
基本的に神さまの遣いであるはずですが、”神階” が高いのか、神使そのものが神と同義に扱われ神そのものとして振る舞う物語も多く、イナバナ.コムでご紹介した民話でも折々に登場してくれています。
“狐” は稲荷=稲成りの名のごとく、春になると山から降りてきて農作の障害となる鼠などを捕食することから “田の神” として祀られ、反して、主に池などの湿地に巣食う “蛇” は、脅威や攻撃性が畏怖へとつながり神性を帯びることになるなど、その成り立ちも多彩ですね。
一般的に知られる神使といえば “狐” そして “蛇” あたりが有名どころ、他に “狸” “鹿” “馬” “狼” “鼠” “牛” “猿” “兎”・・さらに、”鶴” “蟹” “虎” “蜂” “猪”・・ “鯉” や “百足” まであるそうです。神話に登場する “八咫烏(ヤタガラス)” なども神の遣いですね・・。
まさに多種多様、詳しく調べれば神使に採用されていない動物の方が、少ないのではないかと思えるほどのバリエーションですがw、それだけ往古の人々と自然のつながりが深く渾然一体であったことを物語っているのでしょう。
と、いうところで、今回は宮城県石巻を舞台として、本日はちょっと珍しい神使 “白鳥”、次回は神使の大御所 “狐” にまつわるお話をお届けしたいと思います・・。
宮城県石巻市、県の東北部、石巻湾と三陸沿岸域に面しながら県内第二の人口を有し、商業、漁業とも隆盛を誇る港湾都市でもあります。 古く江戸時代までは仙台藩随一の経済中心地でもありました。
市域の7割を擁し他地域に接する内陸部と、平成の大合併以降、大幅に拡大した牡鹿半島部 及び周辺諸島によって形作られますが、その内陸側と半島部は万石橋という一本の橋梁で繋がれています。(陸行でつながる女川町は市外地であるため)
この万石橋の周辺、渡波(わたのは)一帯は、江戸時代のはじめより塩田で知られた地でありましたが、ここに一遍の不思議なお話が伝わります・・。
ーーー 御遣いの白鳥 ーーー
石巻 渡波の流留の地に 菊池与惣右衛門 という名主がおった
当時 この渡波は小さな田畑での農耕と幾ばくかの漁で どうにか糊口をしのぐ貧しい村
与惣右衛門 はこの閑散とした土地での暮らしを 何とか潤す手立てはないものかと常から思いを巡らせていたそうな
そんな与惣右衛門のもとに 渡波に塩田を開くよう藩命が下ったのは寛永のとある年のこと
これこそ 村の暮らし向きを上げる好機に他ならんと与惣右衛門大いに気勢を上げ 早速に付近住民より人夫を募ったと
浜辺を平らげ湿地を埋め 海水を引き込む土地を設えて塩田を広げる目処は立つが
ただ広げただけでは やがて海に削られてしまう
ならば 先ずは平地を守る堤防を築かんと 与惣右衛門 自ら先に立ち
鍬を振るい もっこを担ぎ 人夫たちを鼓舞しながら総出でこれを築き上げた
ようやく形が整い やれこの後は田を広げるばかりと喜び勇んだときのこと・・
朝になり 堤のたもとに立った与惣右衛門は開いた口が閉まらなかった
昨日まで皆して築いた堤防が きれいさっぱり失われているではないか・・
あまりのことに我が目を疑うほど・・遅れて集まってきた人夫たちも驚き騒いでいる
されど いつまで考えておっても埒も開かぬ
理由は解らぬが 失われたものは築き治す他なし 堤防を築かねば塩田が開けん
首を傾げる人夫たちをたしなめて 与惣右衛門は また鍬を振るい続けたと・・
ところが どうだろう やっと築き治した次の日の朝になってみると またしても盛り固めた土は失われ 元の浜辺へと帰している・・
以後 何度築き治しても翌朝になると元に戻ってしまうのだ・・
ここに至って これ最早 人の手による邪魔立てなどにあらず
人智の及ばぬ霊障によるものが疑われた 人夫たちも怯えはじめている
与惣右衛門 は日頃 信心している神前にて食を絶ち 工事の進展と加護を祈ったそうな
とある日の夜 与惣右衛門 の夢枕に一羽の大きな白鳥が現れた
一丈 ほどもあろうかと思えるような 大きく真白な羽をゆるやかに羽ばたかせながら 白鳥は 与惣右衛門に告げた
「与惣右衛門 われらは永き年月のわたり冬の間 この浦浜に渡って餌を求めてきた」
「されど 此度 人間どもの利益のため この地が平らげられ塩田となるならば 我ら眷属たちの糧が失われてしまう よって そなたたちの工事を妨げているのだ・・」
このお告げに与惣右衛門は ハッとして目が覚めた
これは 日頃 信心している神をして 白鳥なる心霊に遣わされた申言であろう
知らぬ事とはいえ 人間の都合だけを考えていた自分の浅はかさを恥じた
されど 渡波の民のために始められた工事 ここに至って止めるわけにもいかぬ
お上にも図り 塩田予定地の一画を白鳥の越冬池として残すこととした
干潟の外れに 村人たちと社を興し ”白鳥を神使として護り奉るゆえ 村のための工事を何卒許し加護をお与えくださるよう” 祈りを捧げたところ
その後の工事はつつがなく進めることができ 以降 村は塩田のもたらす恩恵で豊かになったそうな
白鳥のために建てた社は今でも 町の一角に佇んでいる・・
ーーーーー
菊地与惣右衛門 は実在の人で、江戸時代に実際に干拓・塩田地事業に携わった方だそうで、当地は仙台藩にあった4ヶ所の塩田地の中でも最大であったとのこと。
現在、その名も “塩富町” と伝わる町の一角に「鳥浜神社」は今も残っています。
白鳥の精霊と、(海流・潮の流れを司る)”塩土老翁神” を併せ祀っているそうで、傍らには大きな石碑が建てられており、由緒を残しているのでしょうか。
時代は変わり、製塩は町の主要産業ではなくなりましたが、塩によって支えられた歴史風土と、白鳥の神使によって紡がれた浜町の風情は、今も確かに伝えられているのです・・。