天賦の才も専心を重ねて後世に輝く(後)- 山口県

京都府の北端、日本海側に接する宮津市、この一角に「天橋立雪舟観展望休憩所」という名の好楽施設があります。 宮津湾を通して日本三景のひとつ「天橋立」を見晴らす位置に開かれています。

“雪舟観(せっしゅうかん)” その名からも知れるように、ここは、国宝「天橋立図」(京都国立博物館蔵)に描かれた天橋立を、雪舟と同じ視点で展望するために作られました。 展望所から北西方向に天橋立、そして阿蘇海を挟んで対岸の町や山景を眺めることができる公園といった感じでしょうか。

只、残念ながら ここから得られる眺望は、あくまで平面的な視野の方向性についてのみであって、高度(景色を眺める高さ)については「天橋立図」と同じようにはいきません・・。 そもそも図から求められる視点場所*には山もなければ峠もなく、景色を俯瞰(ふかん・見下ろすこと)することなど実際には不可能であったのです・・。(*一説には高度800メートルほど)

 

実は この「天橋立図」、国宝に指定される絵でありながら “雪舟 作” であることを示す落款も遊印も残されていません。 力強い筆致や大胆な構図、書き込まれた小さな文字の筆跡などから雪舟によるものと認定されているのです。

そして、俯瞰の話からも知れるように、この絵は雪舟が実際に当地を見聞して描かれたにもかかわらず、実際の景色より かなり緩急自在に強弱を施して描かれているのです。 言い換えれば、一見写実的でありながら、よくよく見ると写実的でないということになりますね・・。

国宝『天橋立図』(京都国立博物館)

これは、雪舟が明国・大陸で学び体験した自然の雄大さと、それをダイナミックに表現する手法から来るものであり、雪舟以降の水墨画・日本画に大きな影響を与えたもので、なおかつ筆致の大胆さも相まって独特の世界観を生み出しているのです。

 

この作品には落款がないと書きましたが、雪舟の落款を巡って近年 大きなトピックが起こっています。

雪舟は諱(本名)を “等楊(とうよう)” といい、画作において “雪舟等楊” と号していましたが、同時に古くから “拙宗等楊” の画号も存在していました。

この “拙宗” が “雪舟” と同一人物であるかどうかは、江戸時代から物議になっていましたが、最近になって “等楊” と彫られた落款の合致をもとに “同一人物説” が確実視されるようになってきたのです。

古くから物議になっていた・・というのは、同一人物であるとするならば “拙宗” 号の作品の多くが “雪舟” 作に比して、かなり筆致が異なるがゆえでした。 とても同じ手によるものとは思えないという専門家もいるほどです・・。

同時に、雪舟はその名声とは裏腹に若い時代の作品がほとんど確認されておらず、名を成す作品の多くが60歳代以降の作であり、もし “拙宗” 作が 雪舟の若き日の作品であるとするならば、今まで不明瞭であった雪舟の画業の変遷・進展に、新たな光が当たることになるかもしれません。

前項で触れた、幼き日の天賦の才の萌芽から革新の名画群までの “専心の時代” が浮き彫りになるかもしれない・・興味深いトピックなのです・・。

 

さて、その “専心時代” にあたるのか? それとも技法を磨いて名だたる絵師となった頃なのか? 伝承ゆえに詳らかでないものの、前編の “涙鼠” の話に勝るとも劣らない逸話と遺宝が、山口県吉敷(よしき)の「瀧塔山龍蔵寺」に残っています。

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千ニ百年の昔、不思議な紫雲に導かれた “役行者(役小角)” によって熊野権現が勧請され、その後、行基の手になる千手観音の奉安をもって開かれた龍蔵寺。

後にこの観音堂に掲げられた一枚の大きな絵馬は「駒つなぎの絵馬」と伝えられる。

この地に住もうていた雪舟の筆により描かれ、納められたものとされ、今にも走り出しそうな筋骨隆々の黒駒(黒馬)が そこには息づいている。

ところが、納められて間もなくの頃から、吉敷の里の田畑が夜半 何者かによって踏み荒らされる事件が頻発していた。

困った百姓たちが寝ずの番をして見張ってみたところ、草木も眠るような深夜、夜陰に紛れて馬の嘶く声が聞こえ、やがて闇の中から一頭の大きな黒駒が現れたかと思うと、怒涛のごとく そこらじゅうを駆け回り、田畑など散々に踏み荒らした挙げ句、日の出とともに龍蔵寺の観音堂へと消えていったという・・。

この世のものでないならば どうにもならぬ・・。

しかして、この駒の元が雪舟の筆になるところが知れると、これはもう雪舟によって鎮めてもらうほかなし・・ということになり、百姓たちは連だって寺の住持に頼んだそうな。

住持をして この事を聞き届けた雪舟は、取りも直さず絵馬に描かれた駒に “手綱” を描き足し、この絵から抜け出すのを止めようとしたが・・。

よほどの悍馬だったのか、その後も黒駒は手綱を引き摺りながら深夜に現れ、里で暴れ回ることを繰り越したと・・。

事 ここに至っては如何ともし難し、この上は黒駒の生命を断ち切るより百姓たちの暮らしを守る術はない。 腹を括った雪舟は小刀をもって絵馬に二本の太刀筋を切り入れたのだと・・。

 

その後、吉敷の里には平穏が戻ったそうな。
龍蔵寺に掲げられている絵馬には、その時の切り傷が今も微かに見受けられる・・。

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龍蔵寺山門の傍らにある岩には “黒駒が残した蹄(ひずめ)跡” が、現在も残っているとも伝えられています・・。

何ともダイナミックなお話で、”画聖” のエピソードというよりも、どちらかというと “伝説の名工” で名高い、”左甚五郎” 逸話などの影響を受けているかのような伝承ですね。

絵馬そのものの雪舟作真贋は詳らかではありませんが、雪舟が長く住み慣れた周防国・山口県ならではの伝承、それだけ後の世に雪舟が遺したものの大きさを知れる気がします。

「駒つなぎの絵馬」意外にも「大聖青不動明王」「八百屋お七の供養塔」そして「愚痴きき地蔵」「ちょうだい地蔵」など、『瀧塔山龍蔵寺』は ご利益はもとより、非常に見どころの多い古刹でもあるようです。 山口市をお訪ねの際は お立ち寄りを考えられては如何でしょうか。

『 瀧塔山龍蔵寺 』 公式サイト (一見の価値あり)

 

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