天賦の才も専心を重ねて後世に輝く(前)- 山口県

その小坊主は幼くして入寺したものの、仏道修行において身が入らず、事あるごとに筆や炭の欠片を用いて絵を描くことに興じる。

里方より そのような話は聞き及びしも、元来、寺は仏門の場
何をおいても 先ずは仏の道を学び 己が世俗の執着を捨てることが肝要・・

住持、そのような想いから、幾度となくこの小坊主を説諭するも一向に善処を見ず、いや増して、絵を描くことへの執念絶ち難し。 ついに住持、一罰をもって骨身にこれを改悛せしめんと、小坊主を柱に縛り付け昼夜 据え置くこととした・・。

とは申せ、まだ年嵩もなき童の者なれば、これを放置するに何事かあってはならぬ、住持、虫の音のみが響く深夜、密かに小坊主の様子を見んと縁の影から覗き見ると・・、

何と 小坊主の足のたもとに、拳ほどもありそうな黒々とした大鼠が、今にもか弱き足に噛み付かんと ゆらゆら動いておるではないか。

これはいかぬ!と 思わず住持 躍り出て 鼠を追い払おうとするも、鼠、一向に動ずる気配なし・・。 如何なることと改めて見定めるに・・この大鼠、小坊主が己が涙を用い足の指で書いた絵であった。

呆気にとられた後・・、これ この絵に込めし才覚、この小坊主の天性であり一生の道であろうと知りしめた住持、小坊主の縄を解き、それより後は絵の道に進むことを助けたという・・。

 

室町時代の水墨画家「雪舟」にまつわる有名なエピソード、一度はお聞きになった方も多いでしょう・・。 昭和時代には昔話の一環や教科書などにも載っていたため、広く知られるところとなりました。

自分の頬に伝わる涙を 自分の足指ですくい取るなんて、絵の才能とともにヨガの才能も有るんじゃないか? などとバカなことを考えていた私などはさておきw・・、 この逸話が一般に流布されたのは江戸時代のことであり、雪舟の没後200年ほど後の話です。

また「本朝画伝(ほんちょうがでん)」という書に、狩野派の絵師によって記されたものでもあり、当時 “雪舟” が、国内最高画壇とされた狩野派にとって神格化された人物であったことから、逸話自体が創作であった可能性も呈されています・・。

とはいえ、単に著名であっただけの人物が数百年の時を超えて今の世にまで、その功績を伝えられるはずもありません・・。

一般において “涙鼠” のエピソードで知られる “雪舟” ですが、彼は “水墨画” の発展のみならず、後の日本画の革新と隆盛に多大な影響を与えた、一大パイオニアでもあったのです。

 

南北朝 双立による天下の動揺もようやく納まった 応永27年(1420年)、雪舟は備中国(現在の岡山県)に生を受けます(一説に武家の庶子であったとも伝わります)。 諱(本名)は “等楊(とうよう)” であったそうです。

まだ物心がついたばかりの幼い頃、地元、臨済宗宝福寺に入門、おそらく上の逸話はこの頃を基として語られたものと思われます。

9歳の頃、京の同門 相国寺に移りますが、ここで画僧 “周文” に師事、足利将軍家抱えの絵師であり当時最高峰でもあった周文の薫陶を受け、等楊は瞬く間にその画力に磨きをかけていきます。 天下に憶えた絵師に見込まれるということ自体、入門時には既に並外れた才能を見せていたのでしょう。

40歳代に入ると、ひとつの意をもって京の都を離れ 周防国(現在の山口県)に入り、当地の守護大名 大内氏のもとを訪ねます。 大内氏は対明貿易(大陸との交易)に携わり、当時の周防国は文化・経済とも先端の地でありました。 この頃から “雪舟” の画号を名乗るようになっていた等楊は、さらなる技量習得のため、先進の国 “明” への渡航の機会を伺っていたのです。

大内氏の庇護を受けながら「雲谷」という画庵を結び、ひたすら画業の研鑽に努める雪舟に、遣明船で渡航の命が下ったのは48歳の時だったともいわれます。

途中、国内で勃発した “応仁の乱” の影響で渡航は危機に晒されますが、雪舟の乗った舟は何とか “寧波(ねいは・上海の南)” に到着、一行は禅宗五山 “天童山景徳寺” をはじめ “北京” にまで上り、壮大な大陸の自然美を肌に感じながら、先進の筆技を習得していきました。

 

雪舟の能力は時の明国でも高く評価されたようで、 “四明天童山の第一座” という禅僧として極めて誉れな称号に推挙され(当時の水墨画は禅の教義と一体であったため)、また、時の皇帝 “憲宗” の依頼により、庁舎 “礼部院” の壁画にも筆を揮ったといわれています。

3年の在明期間を終え帰国した雪舟は「雲谷庵」に戻り、数多に学んだ技法、そして長大豪壮な大陸の自然美を自らの中で昇華し、己が筆に活かすことに邁進し続けます。

それまで 日本画壇にあって良しとされた、 “繊細さにこだわるあまり小さく纏まってしまう” ことへの不満を振り払うかのような、豪胆で迷いのない筆致、深遠かつダイナミックな構図は、この頃から いよいよ発揮されていったようです。

既に誰しもが認める画業・評価を得ていた雪舟でしたが、彼の向上・革新の精神は年をとっても衰えず、日本全国に自らの足で赴き その自然美を一本の筆・一握の墨によって後世へと残していきました。 『四季山水図巻』をはじめ、現在、国宝とされる6点はいずれも60歳を超えて描かれたものです。

画風の追求、探究心、創作意欲、どれも晩年に至るまで旺盛にして、(国宝)『天橋立図』を現地まで行って見聞し描き上げたのは、実に晩年間近 82歳のことだったといいます。

 

永正3年(1506年)87歳*で旅先で没した雪舟、生涯にわたって追い続けた水墨画への探究心は、その最後の一瞬まで潰えることなく、彼にとってはまだまだ旅の途上であったのかもしれません。*(別説あり)

『秋冬山水図』(冬景図)(東京国立博物館)

水墨の彼方に広大無辺の世界を築き上げ、後の水墨画・日本画に決定的な影響を遺し”画聖” とまで讃えられた彼ですが・・、 幼いときに見せた天賦の才の片鱗も、その後の専心と努力によってはじめて天下に花咲くところとなり得たのでしょう。 弛まぬ経過なくして結果はないのです・・。

次回は、近年 大きな曲がり角を迎えつつある “雪舟” に関する “疑問”、そして、冒頭の逸話に呼応するかのように、周防国(山口県)に残る “雪舟伝承” のご案内をもって後編とさせていただきます・・。 本日も有難うございました。

 

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