庄内平野を見下ろしその彼方に日本海を望む気高き山、出羽三山。
往古「いでは」とも呼ばれた秋田から山形にかかる東北の地、その出羽国を東西に分かつようにそびえるこの山が修験の本山となった その始めには一人の皇子の物語がありました。
皇子の名は 蜂子皇子(はちこのみこ)、未だ古墳時代の香りがほのかに残っていた欽明朝23年(562年)、皇嗣 泊瀬部若(はつせべのわか)、後の崇峻天皇(すしゅんてんのう)の第三子としてこの世に生を受けました。
第三子という順位から次の皇嗣としての立つ瀬は無かったものの、順当にゆけば父帝を支え政務に携わる立場でありましたが、そうした中 一大政変が天下に轟きます。
かねてより確執のあった蘇我馬子(そがのうまこ)によって崇峻天皇が暗殺されてしまったのです。
王室による統治が既に確立していた時代とはいえ構造的にまだまだ未成熟な時代、後に連なる乙巳の変(俗に言う大化の改新)にも見て取れるように、朝廷内においてもあからさまな覇権抗争は後を絶たなかったのです。
亡き者とされた天皇は葬儀さえも行われず、殺害されたその日の内に埋葬されてしまったと言うのですから、当時の混沌とした状況が伺えますね・・
父帝が暗殺されたとなっては第三子とは言え 蜂子皇子にも命の危険が迫ります。
緊迫した状況の中、皇子に救いの手を差し伸べたのは厩戸皇子(聖徳太子)であったと言われています。厩戸皇子の計らいによって間一髪で宮中を逃れた蜂子皇子は飛鳥を出て北上、丹後国由良の浜(現在の京都府宮津市由良)まで逃れ そこから船に乗り脱出を図ります。
当時、都から西方へ向けての行路は開けていたものの、あえて北を目指したのは追手にとっても進軍し難い道筋を選んだのかもとも言われています。
とは言え、事件が起こったのは年も押し詰まった12月、既に雪も舞っていた丹後から鉛色の波渦巻く日本海に漕ぎ出し さらに北を目指す皇子の心境が思い図られますね・・
そしてもう一つ、皇子の胸にあったのはいつか厩戸皇子に聞いた〈東の果てに神々住まう聖なる山在り〉の言葉が残っていたのかもしれません・・
ともあれ追手を逃れ寒風吹き荒ぶ海に乗り出した皇子は 越前、佐渡、そして越後をさすらうように辿り、やがて波も少し穏やかさを取り戻した頃 出羽国 庄内の沖合に達します。
つかの間の安堵と風光明媚な浦の景色に暫し心を癒やされていた皇子、しかし その時皇子の耳に どこからともなく美しい歌声が聞こえてきます。
いったいこの声は何処から流れているのかと浜の脇に沿うように探してみると、そそり立つような岩肌の合間に大きな洞穴があり、その前に突き出た岩の上で数人の乙女がたおやかに舞いながら歌っているではありませんか
ところが その美しさ、神々しさに見惚れる皇子に気づき驚いたのか乙女たちは舞うことを止め そそくさと岩穴の中へと逃げ込んでしまいました。
自分は怪しい者ではないと乙女たちに伝えようとした皇子でしたが、岩肌に打ち付けては返す波と水面から突き出す多くの岩に阻まれどれほど漕いでも中々船は岸まで辿り着けません。
半ば諦めようかとしたその時、岩穴から二人の乙女が姿を現しゆるやかに手を振っています。皇子に岩場の避け方を教えているようです・・
導きのままに船を勧めようやくのことで乙女たちの所へ辿り着くことが出来た皇子は、自分が皇統の者である事、醜い争いを逃れここにやって来た事、諍いや苦しみのない世を作るためこの地の聖地を探している事などを話しました。
皇子の話しを聞いた乙女たちは少し驚いた様子・・ 八乙女、自分たちはこの地の神が生まれたこの浦を守る者、この地の神に見初められたくば心身を磨き東方の山へ向かうが良いと教えてくれました。それは皇子の心根に感心しその素養を見抜いた巫女たちの神託とも言えるものだったのかもしれません。
その日から皇子はその洞穴に籠もりました。神に会い聖地に辿り着くための修行の始まりです。来る日も来る日も身を清め、より厳しい修行を自らに課すことで己の精神を高めてゆきました。
八乙女たちは既にその姿を隠していましたが、八乙女立ちなのか地元の民なのか洞穴の入り口にはいつもそっとその日の食料が置かれてあったと言います。
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崇峻天皇5年(592年)に起こった蘇我馬子による崇峻天皇暗殺事件は正史における確かな記録の残った唯一の暗殺事件だと言われます。
崇峻天皇自身、蘇我氏の血を引く人であり蘇我馬子の擁立によって第32代天皇となった方でしたが・・
この事件の数年前、それまで朝廷内において大きな力を持っていた軍事氏族 物部氏と蘇我氏の対立 そして抗争の果て物部守屋が敗死、以後、物部氏は没落 反して蘇我氏は以後 絶大な権力を獲得していきます。
そのような状況の中で蘇我氏によって立てられた崇峻天皇でしたが、それ故に形ばかりの王とされ実際の権力は蘇我馬子が持っていたところに軋轢が生まれたのでしょう・・
そんな蘇我氏も数十年後には乙巳の変によって大きく衰退してしまうことはご存知の通りですね。
ともあれ、果てのない欲望と権力抗争の犠牲となり漂泊の末、当時まだ未開ともいえた出羽の地に辿り着いた皇子の心境を考えれば、「欲」を打ち払い 天命のまま自然と共に生きる、そんな気持ちに満ちていた事は当然の流れだったのかもしれません。
皇子の行く先はいかなるものか・・ 以下、次号にて
* 皇子が籠もられたと言われる洞窟は コチラ [庄内ロケ地データベース様] のサイトで画像が御覧になれます。