植物学の父は無垢な笑顔で我道を歩んだ – 高知県

シンガーソングライター 中島みゆきさんの歌「地上の星」ではありませんが、世に大きな足跡を残しながら、あまり人々に顧みられない・・というか、あまり知られていない偉人というのは思いの外おられるようで、本日 ご案内する人物も、その お一人なのかもしれません・・。

もちろん、その道に詳しい方々から見れば紛う事なき巨星であるのですが、専攻分野が比較的 地味・・言い換えるなら社会の表面部分で脚光を浴び難く、メディアで取り沙汰され難いが故の知名度の低さであったわけです。

・・が、そんな彼にも ようやく時代が追いついてきたのか、ついに日の光が当たる時が来たようで、来たる2023年 NHKの連続テレビ小説で取り上げられることになったのだとか・・。(2023年前期放送予定「らんまん」)

画像 © NHK

その人の名は「牧野富太郎」(まきのとみたろう)
日本で初めて “近代植物学” を体系的に築き上げ、後の植物学のみならず 薬学や環境学にも多大な影響を与えた、”日本植物学の父” と称される学車です。

まだ幼い頃から植物に興味を持ち、やがて、日本における全ての植物を網羅した図鑑を 自らの手で作り上げることを決意、その後の人生の大半を植物の調査・採集、模写による記録、そして研究に費やしました。

彼が生涯にわたって集め調べた植物標本は約50万点、それまで未確認であった種を学問的に分類、新種発見をも含めて発見・確認・命名された数は2500種に上るともいわれているそうです。 一般の感覚では認識し難いのですが、こういった基礎研究の領域こそが科学 / 化学の根底を支えており、後の社会発展への土台となっているのです。

当時の植物研究の基本である模写(極めて詳細なスケッチ)も全て自らの手でこなし、”鼠の毛3本” と表現される極細の筆で描きあげており、その枚数は確認されているものだけでも40万枚を優に越えるのだとか・・。

牧野富太郎 が生を受けたのは高知県高岡郡 佐川町、文久2年の生まれといいますから、明治改元の6年前のことですね。 江戸時代には土佐藩の筆頭家老 深尾氏の領地であり、氏族の理念である学問重視の伝統から、佐川町は古くより教育に力を入れる土地柄でありました。

酒蔵を営む裕福な商家の生まれながら 植物の観察に興味を深めてゆく彼は、当時の寺子屋から新設の小学校へと学びの場を進めますが、程なくこれを退学してしまいます。(※ 現制度の小学校とは学制が異なります)

勉強に付いて行けなかったからではなく、逆に当時の教育水準に飽きたらなかった故の中途退学であり、本人の学力は既に突出していたようです。 退学の2年後、若干15歳の時には その小学校の委嘱教諭として教鞭をとっていたそうで、当時の教育事情とはいえ 如何に非凡な才能を有していたかが伺われますね。

 

17歳、教諭の職を辞した富太郎は さらに高知市へ出て、五松学舎という私塾に席を置きますが、どうも ここでも本義たる漢文などには興味が無かったようです。 もっぱら野山に足を運び植物の調査に精を出し、一方で それらに先達の知識を持つ教育者や医学者との知己を広めることに専心していました。

ところで、これらの間、実家である酒蔵は全くの放置状態、本来 跡継ぎである筈の富太郎でしたが、そちらの方は親族に丸投げであったようです。 自らを “草木の精” とまで想い益々植物学への傾倒を深めてゆくと同時に、周囲の状況に頓着しない様子は、ある意味、貪欲な探究心を持ちながらも 超マイペースな性格であったともいえるでしょうか・・。

当時はかなりの高級品であった顕微鏡や専門の書籍を手に入れるために、そして開催中の内国勧業博覧会の視察をも兼ねて上京したのは19歳の時だったそうです。

以降、様々な人脈を得て “帝国大学理科大学(東京大学理学部)” に籍を置くことを許され、その研究と成果に磨きがかかっていきます。 積み重ねた知識と持ち前の研究心で学内でも認められ、「日本植物志図篇」や「植物志図篇 / 大日本植物志」の編纂・発刊を成し遂げ、日本の植物学に確固たる足跡を築いてゆくのです。

 

しかし、全てに順風満帆ではなかったようで、学会でその名を知られるようになるころには実家の酒蔵は破産、自らも万年借金状態、さらに学内における教授たちとの軋轢にも何度か晒されました。

先にも書きましたが、どうもこれは、富太郎本人のマイペース故の性情にも起因するところが少なくなかったのではと思えます。本人をして「その上私は従来雨風を知らぬ坊ッチャン育ちであまり前後も考えないで・・・金には全く執着のない方だったから」*と言わしめるほど・・

周囲の多くの人々から愛されていたことから見て、身勝手ではなく むしろ人の良い性格ではあったようですが、研究以外、あまり生活や上司への気兼ねに考えが向かない性分だったのですかね・・w。

明治期の帝国大学

彼を物語るエピソードで面白いものを 最後に もうひとつ・・。
大正12年に発生した “関東大震災” の時、彼も渋谷で被災しました。その時のことを彼はこう書き残しています。

「震災の時は渋谷の荒木山にいた。私は元来天変地異というものに非常な興味を持っていたので、私はこれに驚くよりもこれを心ゆくまで味わったといった方がよい。当時私は猿又一つで標品を見ていたが、坐りながらその揺れ具合を見ていた。・・余震が恐いといって皆庭にムシロを敷いて夜を明したが、私だけは家の中にいて揺れるのを楽しんでいた。」*

「後に振幅が四寸もあったと聴き、庭の木につかまっていてその具合を見損なったことを残念に思っている。その揺っている間は八畳座敷の中央で、どんな具合に揺れるか知らんとそれを味わいつつ座っていて、ただその仕舞際にチョット庭に出たら地震がすんだので、どうも呆気ない気がした。・・もう一度生きているうちにああいう地震に遇えないものかと思っている。」*

東京に壊滅的被害をもたらした大地震に もう一度などと、地震学者でさえ中々思わなさそうなことを平気で思い、あまつさえ楽しんでいる様子など、やはり常人離れした感性と素質を持っていたのでしょうか・・ 家族は大変ですね・・w。(因みに13人の子持ちであったそうです)

 

元来、酒蔵の主人となるはずだった坊っちゃんは草木にしか興味を持たず、やがてそれは一生を賭した道となり、ついには世界に誇る日本植物学の礎をなしました。 富にも名声にも無頓着で、只ひたすら植物と触れ合い、また自らの思う所に興味を寄せていることに生き甲斐を感じていた生涯であったようです。

小学校中退の学歴に関わらず “理学博士” の学位を得、その生誕日は「植物学の日」とされた堂々たる実績も、本人にとっては一片の出来事であったのかもしれません。 ここまで一徹していながら、多くの人々から助力を得て愛されてきたのも、生来 天衣無縫ともいえるような笑顔が彼の人となりを物語っているのでしょう。

 

牧野富太郎の故郷 “高知県佐川町” では、彼や先人の意思を継ぎ “文教” と「まちまるごと植物園」という構想のもと町づくりを進めています。 富太郎 縁の場所も含め、閑静な山間の町に関わらず見どころも多い町、今月1日から9月30日まで開催されている『さかわ かき氷街道2022』による暑気払いも兼ねて、訪れてみられるのも良いのではないでしょうか。

* 牧野富太郎自叙伝 より抜粋引用
* 高知県高知市五台山には 「高知県立牧野植物園」 も開館されています。

『さかわのしおり』 (一社 さかわ観光協会) 公式サイト

『さかわ かき氷街道2022』 公式ページ

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