不落の城は琴の海の畔に静かに佇む – 長崎県

長崎県ほど複雑な地形を有する都道府県は、他に見当たらないのではないでしょうか。
鉞(まさかり)を持つ青森県、琵琶湖を抱える滋賀県、その他にも奇勝な姿の海岸線を持つ県などがありますが、長崎県の地形には独特なものがありますね。

その長崎県の本土側中央・・一見、大きな湖に見えてしまうような水域が「大村湾」、景勝地として知られる西海橋公園域を挟んで、佐世保湾とつながる巨大な内海であり、同時に内海であるが故の 穏やかな凪の風情から “琴の海” の雅名をも持ち、閉鎖性海域ならではの生態系・自然環境をも築いています。

この大村湾に接して南東部に位置するのが “大村市” 、そして、その大村市の海岸線の一角に(現在では ほぼ内陸化されてしまったものの)、古く、三方を海で囲まれた特異な立地に建てられた城が、本日ご案内する『玖島城(くしまじょう)』です。

この玖島城、慶長4年(1599年)の完成より安土桃山・江戸時代を経て明治に至るまで、その防御堅牢な造りにもかかわらず、大きな戦火にまみれることもなく、明治初期まで藩庁としての機能も果たしたほどなので、戦国史にその名を轟かすこともなかったのですが・・。

明治時代にその役割を終えたとして建物は破却されたものの、その石垣は古の姿をそのまま残しており、今は埋め立てられたとはいえ、古来この周囲が海で囲まれていたであろう面影をそこかしこに残す、城探訪、玄人好みの城郭地でもあるのです。

 

玖島城を築城したのは “大村喜前(おおむらよしあき)” 肥前国大村藩の初代藩主ですが、とりあえず、その父 “大村純忠(おおむらすみただ)” について・・。

純忠は まだ争覇著しかった時代の中で、当地の有力武将 松浦氏や龍造寺氏、また島津氏らと覇を競っていましたが、まだ力に劣る自国の強化を図るため、当時 既に大きな影響力を持ちはじめていた ポルトガル人の受け入れを積極的に行いました。

現 佐世保湾の一角、横瀬浦をポルトガル船の寄港地として開放し、多くの国内外商人を呼び寄せることで経済の勃興を図り、同時に最新鋭であった鉄砲入手など軍備の増強に力を入れていたようです。 後に寄港地を横瀬浦から長崎港へと移したことで後代へ続く長崎の発展の端緒を開いたともいえるでしょうか。

さらにポルトガル商人たちに崇敬される “イエズス会” 神父や宣教師たちの居住区を用意し、ついには自らもその洗礼を受け、日本初のキリシタン大名となり その領内にキリスト教を根付かせる嚆矢となったのです。

元々、自国強化のための外国人利用ではありましたが、キリスト教の教義に触れる度に感化を進めていき、自ら教徒となった後は側室を廃して生涯 正室のみを置き、天正10年には “天正遣欧少年使節” に甥の “千々石紀員(千々石ミゲル)” の出向を決めています。

横瀬浦公園に立つ大村純忠の受洗の碑

只、地元に対する純忠のキリスト教布教政策は強制苛烈なものであったといわれ、教徒の増加とともに民・寺社からの反発をも招き、国内情勢の不安要素を作ってしまいました。 ローマから帰国した千々石ミゲルがやがて棄教し、キリスト教への反感を顕にした事件もこれに拍車をかけたようです。

キリスト教徒として世を去った純忠、19歳の若さで家督を継いだ嫡男 “喜前(よしあき)” は、このような状況を是正するため、ミゲルの処分も含めて仏神徒の復興にも力を入れています。 後には臣従した豊臣秀吉発令の “バテレン追放令” に沿う形で、宣教師を追放、やがては自らも日蓮宗へと改宗しました。

教義とは別に、様々な意味でその影響力・覇権を広げたいイエズス会・外国人勢力、その力を利用したい、または遠ざけたい国内諸勢力、そのせめぎ合いの中で翻弄される人々、信仰という本来純粋であるべきものが、人の欲と打算の中で泥沼の様相を呈してゆく悲しげな時代でもあったのでしょう。

 

秀吉の朝鮮出兵 “文禄・慶長の役” にも従軍して渡海した喜前は、激戦をくぐり抜け やがて帰国しますが、彼の地、順天倭城の戦いなどで知った海城の防御力の高さに感銘を受け、自国を護る城造りにこれを活かそうと思い立ちます。 秀吉亡き後の世には不安の影が押し寄せていたことも大きく影響していました。

はじめ杭出津(くいでつ)の地に作り掛けていたものを、玖島の小さな半島に着目し、この地を城地と定め直したのも、三方が海に囲まれた城は守るに易く 攻めるに難いことを身をもって知っていたからでしょう。

約1年の突貫で落成を迎えた城は 当初北側に大手口があったそうで、今でもその近辺には初期に積み上げられた自然石の石垣や土塁が、その名残りを留めています。

その後、喜前は徳川家康・東軍に与したため 戦後 所領を安堵され、意欲的に築城した玖島城も戦火に晒されることはありませんでしたが、嫡男・純頼 が慶長19年(1614年)に大幅な改修を行い、大手口を反対の南側へ移し、石垣を加工石を用いた “打ち込みはぎ” と呼ばれる扇状の美しく堅牢なもので築いています。(この改修には加藤清正の指導があったともいわれています。)

明治の破却により多くの建造物は失われましたが、平成4年には板敷櫓も再建され、当時の秀美な姿の一端を伺い知ることができます。

元々 天守閣は持たず、本丸には政庁を備えた構造であったようですが、現在は “大村神社” の境内となっており、周囲一帯、名所100選にも選ばれた桜の風情と相まって、春には美しく他の季節には長閑で静謐な風情を今に伝えています。

戦うことの無かった城であり、歴史の舞台にクローズアップされることのない城でもありますが、大村湾を望む景勝の地にひっそりと佇む古の護りには、武運長久と領国安泰の願いが今でも息づいているのです。

観光地としても名高い長崎や西海橋から少し下った大村湾の畔の地、機会があれば訪れてみてください。

 

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