漸悟の道 衛門三郎による遍路のはじめ(後)

年間を通して温暖な気候、町中に多くの緑を抱えながらも人口50万人、四国最大の規模を誇る 衛門三郎のふるさと愛媛県松山市。 今や四国瀬戸内圏において中核を成すこの町も、衛門三郎が生きた時代には鄙びた地方の一里であったのでしょう。

自らの愚行とその報いに耐えかねて大師の救いを求め四国中を行脚、20周を超えて逆打ちを打ったところで、ようやく その渇望が満たされた衛門三郎、歩いた道程は今日 誰もが知る「四国お遍路」の はじめとされています。

命 燃え尽きる間際に弘法大師の許しを得、同時に最後の願いを聞き届けられた衛門三郎は安らかな眠りにつきますが・・、

 

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衛門三郎が倒れ伏し、弘法大師に再会を果たした場所を “杖杉庵” といいますが、これは この地で衛門三郎が亡くなった後に付けられた名でありましょう。

衛門三郎の臨終を看取り供養を施した大師は、彼が行脚に用いていた杖を墓の上に立てたそうです。すると数年後、この杖から芽が吹き始め やがて大きな杉の木になったそうで、この木は今もその次代木が境内に立っているのだとか・・。

 

第十二番札所 焼山寺

月日は流れ、伊予国国司 河野家に玉のような男子が生まれます。河野越智息利(おきとし)の嫡男 息方(おきかた・越智氏7代目)です。

眉目秀麗で大変利発そうな子でありましたが、何故かこの子は生まれた時から左の手のひらを固く握って開けようとしません。 三歳になって未だ閉じたままの我が子を案じた父息利は、妻とともに我が子を連れて菩提・安養寺に参拝、その住職に祈祷を依頼したのだそうです。

“清き川の水にて手を濯ぐべし” とのお告げに従い そのようにすると、今までどれほど開けようとして開けられなかった手がすっと開き、小さな手のひらの中から一片の小石が出てきたではありませんか・・。

息利がそれを拾い見てみると、そこには「衛門三郎再来」の文字が書かれていたのです。

 

これは異なこと、如何なる縁であろうかと住職ともども手を尽くして調べてみると、やがて、その昔 衛門三郎と弘法大師によって紡がれた言い伝えが明らかになりました。

驚いたものの、弘法大師につながる奇特の縁、我が子 息方はまこと遺徳高き運命に生まれたものだと息利は寿ぎました。 後、安養寺は石手寺と名を変えました。

息子、息方も生まれ変わりの妙か、自らの天命に目覚めたか、成人し国司となってからも領民安らかな善政を敷いたと伝わります。

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以上が、”四国お遍路” のはじめ「衛門三郎伝承」となります。
四国霊場 八十八ヶ所を巡る旅、弘法大師の遺徳を偲び行脚を重ねる行に相応しい伝承でありますね。 お話の舞台は平安の初め頃となりますが、この伝承自体が出来上がったのは江戸時代のはじめ頃ではないかと言われています。

さて、それでは前編で触れていました「罪無き子らが皆死んでしまうのは如何なものか」「出家した衛門三郎が国司の座を欲するのはどうしたことか」という課題です。

第五十一番札所 石手寺に佇む衛門三郎の像

ここからのお話は “四国お遍路” に関して専門的な研究を進めておられる「愛媛大学 四国遍路・世界の巡礼研究センター」教授、寺内浩 氏の論文を参考に記述させて頂きます。

今までも民話・伝承のお話をお届けする際に何度か触れてきましたが、口頭による伝承、記憶のみによる継承の民話は、地域性や時代による影響を大きく受けやすく、同じお話でも様々なバリエーションが存在します。 その差が民話の面白いところでもあるのですが・・

上で申し上げたように「衛門三郎伝承」が一般に流布し、四国お遍路の端緒となったのは江戸時代のはじめ頃と言われており、場所により若干の差異はあるものの 概ね今回お送りした内容と似たような筋立てとなっています。

一方、衛門三郎の生まれ変わりとされる “河野越智息方” に因む「安養寺→石手寺」、ここに残る “石手寺刻板” は、上の伝承流布より100年程前のものとされており、そこに顕された「衛門三郎伝承」は 大筋で後の伝承と似ているものの、前半部において決定的な違いが認められるのです。

~ 天長八年辛亥載 浮穴郡江原郷右衛門三郎 求利欲而富貴 破悪逆而仏神 故八人男子頓死 自爾剃髪捨家 順四国辺路・・ ~

(天長八年辛亥の年、浮穴郡江原郷の右衛門三郎、利欲にして富貴を求め、悪逆にして仏神を破る、故に八人の男子頓死する、それより剃髪し家を捨て、四国辺路にまつらう・・)

 

ここには 一般に広まっている伝承と異なり、弘法大師に無礼を働いたために子供らが死んだとの記述は無く、日頃からの行いや神仏を蔑ろにした報いによって八人の子を失ったと書かれています。 衛門三郎 出家に至る原因に大師は関わっていないのです。

“罪無き子ら八人の死” は、おそらく究極の悲しみと苦しみを表すための “例え” でありましょう。 人心を顧みず神仏を恐れぬ 如何な強情者でも、耐えることの出来ぬ 神罰・苦悩の表現として子宝の喪失をあてているのだと思われます。

そして 後半、焼山寺の病床において大師に国司転生への望みを託す下りは同じですが、そこに至るまで弘法大師は全く登場しておらず、つまるところ、これは大師との “運命の出会い” であって “再会” ではなさそうなのです。

ここから見えてくることは、「衛門三郎伝承」は元々 弘法大師にまつわる “四国遍路、創始伝承” ではなく、それより早くから独立した形で存在していたと考えられることでしょう。

では、それはどういった話であったのかというと、この “石手寺刻板” に著された物語に続く一文に その意義が込められているようです。

~ 寛平三年辛亥載 創権現宮拝殿新堂 同四壬子載三月三日 奉勧請熊野十二社権現 改安養寺号熊野山石手寺 令寄附六十六坊敷井浮穴郡江原郷 願主伊予息方 ~

(寛平三年辛亥の年、権現宮・拝殿・新堂を創る。同四壬子の年三月三日、熊野十二社権現を勧請し奉る、安養寺を改め熊野山石手寺と号す。六十六坊敷井びに浮穴郡江原郷を寄付せしむ。願主伊予息方)

平たく言うと、衛門三郎の生まれ変わりである “河野越智息方 / 伊予息方” によって、この寺は立派に改築された、そして熊野権現を勧請して以降、熊野山石手寺と改名され興隆を見た。というお話。 つまりは、弘法大師の霊力で現世に生まれ変わった “息方” によって始められた “熊野信仰” の創始に物語の重きが置かれているのです。

言うなれば、奇異とも感じられた衛門三郎の国司転生の望みは、息方の生誕を主として逆行的に置かれていたロジックであったとも考えられますね。

伊予地方から四国全土へと熊野信仰が静かに根付いていったことの創生譚と言ったところなのでしょうか。 そこに古来からある “弘法大師信仰” が巧みに結びつき、融合しながら ついには「四国遍路伝承」へと昇華されていったのかもしれません。

 

2020年掲載「清流の里 逸話の深山 黒尊の宮 – 高知県」でも、四国高知県の「黒尊神社」における、紀州熊野信仰とのつながりを記事にしました。 海を隔てた遠い地でも神仏を尊ぶ信仰のつながりは、時代とともに離合集散を繰り返しながら有機的に人の営みと結びついてゆくのでしょう。

コロナ禍によって ここ2年、四国巡礼もその数を減らしています。しかし、数百年を経ていまだ続けられる「四国お遍路」、世界的に見ても珍しい形態の “回遊型巡礼” 、そこには弘法大師、ひいては神仏に開眼と安寧を望む人々の祈りが息づいているのです。

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