霊異眠る社に今は梅の花が咲く – 佐賀県

奈良時代、第45代にして帝を務められた聖武天皇は 大変に繊細な心の持ち主であったように思えます。 全国各地に国分寺の設置を図ったり、奈良 東大寺の大仏造立の詔を出して国家鎮護を祈念しましたが、これは 天然痘の大流行をはじめ様々な厄災や騒乱によって世が乱れていたことをも表します。

故に後の時代からすると “謎” とされるような不可解な行動や、わずか5年の間に4度も遷都を行い、ついには一方的にその娘(孝謙天皇)に譲位して皇位を退くなど、常に不安と対応に追われた心労多き治世であったようです。

 

九州 大宰府の地で騒乱が起こり その鎮圧がなされていた頃、戦況の推移さえ聞かぬ間に聖武天皇は突如として都を後に伊勢国へと出立、戦勝祈願のための伊勢神宮詣りであれば その意も図れますが、天皇は神宮へとは参らず、その後も美濃、近江、山背の地を行幸し、恭仁京をはじめとした遷都を重ねていきます。

一見、現実逃避とさえ思えるような行動の背景に、天皇のどのような想いがあったのか不明ですが、「責めは予ひとりにあり」(世の乱れの責任は私ひとりにある)と遺した心情には、安寧を望みながら中々にそれが果たされない焦りと苦しみがあったのでしょうか。

 

都を出立するきっかけとなった騒乱は『藤原広嗣の乱』と呼ばれるもので、都から大宰府へと左遷された “藤原広嗣(ふじわらひろつぐ)” により、1万人の軍勢を立てて引き起こされた “謀叛” とされています。

“左遷” と言いますが、これには微妙な部分も含まれます。 広嗣はそれまで “大和守” という奈良行政官の長であったわけですが、出向を命じられた役職 “大宰小弐(だざいしょうに)” は “次官職” でありながらも、事実上 軍事力も持った大宰府のトップであったため “大和守” よりも権限が大きく、むしろ “栄転” ともいえる人事でした。

つまり 広嗣が不満に思ったのは役職そのものではなく、都から遠ざけられ政治の中枢から外されたことに対する怒りであったわけですね。

藤原広嗣

広嗣の出向のそもそもの端緒は冒頭でも書いた天然痘の流行でした。 祖父にして藤原氏の礎を築いた藤原不比等の子ら、つまり広嗣の親たちが次々と没してしまい 政権を担う人材が欠乏してしまったため、早急かつ刷新の人事として “橘諸兄(たちばなのもろえ)” が登用されたのです。

諸兄は左右の僚官として、外交力に長けた “吉備真備” と智慧の僧 “玄昉” を据え政権を固めていきます。

こうした流れの中での人事、旧来から貴族意識が高く政治運営に停滞を生じさせやすい藤原氏を遠ざけたい諸兄一派と、約束されていたはずの将来を潰されかねない広嗣らの確執だったのでしょう。

 

憤懣やるかたない思いで大宰府に就いていた広嗣でしたが、遣新羅使の失敗を発端にその怒りが爆発したのか、朝廷に対して “今の世の乱れは吉備真備と玄昉を重用することにあり、これを除くべし” との上奏文を送りつける行動に出てしまいました。

広嗣としては、これを契機に都の反 諸兄派が台頭し、あわよくば自らも復権出来ることを考えていたのかも知れませんが、朝廷ではそうではありませんでした。
即座にこの上奏を謀叛と認定し、時置かずに討伐軍を九州へと放ったのです。

憤懣の発露であった上奏を、審議もなく謀叛と決めつけられた広嗣は驚いたでしょう。既に軍勢は差向けられ、引くに引けない形となっています。 慌てて在地の不平士族を集め豊前の地で九州上陸を阻む作戦を講ずるものの、時既に遅く討伐軍は続々と上陸を果たしていました。

上奏から決戦まで わずか3週間程、時代を考えるとこれは異常なほどの早さです。もしかすると諸兄一派は、予てよりこの事態を想定し事を構えていたのではないかとさえ思えますね。

 

豊前での戦いに敗走した広嗣は落ち延び 船で大陸への脱出を図るものの、折悪しく吹いた逆風に押し戻され、結局 戦から1ヶ月程後に捕らえられた挙げ句、刑場の露と消えてしまいました。

一連の出来事は、言ってみれば政情不安定な時期の一介の政争とも言えるでしょうが、病魔の大流行に続く飢饉、果てに政争・謀叛、戦争と、次々と国を揺るがす事態の頻発に聖武天皇は疲れ果て、その因果を全て自分の所為と思い込んでしまったのかもしれません。

広嗣の乱は あえない最後となってしまいましたが、聖武天皇が皇位を退いた後、娘の孝謙天皇時代に台頭した藤原仲麻呂が政権を掌握すると、今度は橘諸兄、吉備真備、玄昉 らが次々と その勢力を落とすことになっていきます。

真備、玄昉 ともに広嗣と同じく九州の地に左遷され、特に 玄昉に至っては そこで不可解な死を迎えたとされたことから、これを広嗣の怨霊による祟りという噂が流れました。
不名誉な渾名ですが、これにより現代 “藤原広嗣” には “日本最初の怨霊” という言われ方もあるそうです。

 

藤原広嗣 は不遜で短慮な性格であったと評される反面、”品も人当たりも良い人で武勇に優れた人格者であった” という話も聞かれます。 歴史とは得てして後に残る者の都合で残されることが多いため、真実は時のみぞ知る・・というのが実情なのでしょう。

佐賀県唐津市、鏡山の麓にある「鏡神社」は、一の宮の “神功皇后” を祀る松浦の総鎮守です。 そして その二の宮に祀られるのが “藤原広嗣” であり、政敵であった吉備真備が広嗣の怨霊を鎮めるために、ここに祀ったという説話が残されています。

しかし、ここで興味深いのは、広嗣の御霊は 本来 配神としての扱いのはずなのですが、何故か この社、一の鳥居から参道を入った正面に二の宮が位置しており、主祭神であるはずの一の宮が脇となっているところ・・。

そして、鏡神社の古来の名が「松浦廟宮」、すなわち神功皇后にまつわる由縁は後の時代のものであり、元々は広嗣の霊を祀るために建てられた社であったのではないかと思われるのです。

尚かつ、この松浦廟宮の傍らに古く弥勒知識寺という寺院があって、これが廟宮の神宮寺(神社を守護する寺)だったのですが、この寺の建立に関わったのが聖武天皇その人であり、つまるところ広嗣の霊を鎮めるために手を尽くしたのは、聖武天皇そのものだったのではないかと推察出来るのだとか・・。

 

いつの世も栄枯盛衰、藤原広嗣を遠ざけた橘諸兄一派も藤原仲麻呂の台頭とともに衰退し、その仲麻呂も良好であった孝謙天皇との関係が崩れると、まるで広嗣と同じような反乱を起こし ついには自滅の道を辿ります・・。

現代に合っても存亡に掛かる人の願いや思惑、権力闘争の本質は変わらないのでしょうが、まこと往古に合っては それが烈火のごとく燃え上がり渦巻いていたのかもしれません。

”日ノ本初の怨霊” と恐れられた広嗣の霊も、それを取り巻く人々の想いも今は遥か時の彼方、様々な問題はあれど 戦もなく飢饉もなく酷い連座刑もない平和な日本の姿を、広嗣の霊は今どのような思いで見つめているのでしょうか・・?

「松浦総鎮守 鏡神社」には 境内に植えられた200本の梅が毎年花を咲かせます。
今年の冬は寒いようですが、来月2月の中旬から後半にもなれば その優しい姿を見ることが出来るでしょう。 古の争いに翻弄された御霊たちも今は安らかに眠ることを祈るばかりです。

 

『松浦総鎮守 鏡神社』 公式サイト  Facebookページ

〒 847-0022 佐賀県唐津市鏡1827

*  鏡山山頂の “鏡山神社 / 鏡山稲荷神社” とは異なります。ご注意ください。

 

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