“石英” というと、砂利浜から近隣の地道にある石コロに含まれる 乳白〜半透明の岩石成分、言ってみれば何処にでもある ごくありふれた石でしかありません。
しかし、英名の “Quartz / クォーツ” と呼ぶと、時計や精密機器に使う何やら貴重な石材のようにも聞こえるところが不思議ですねw。 さらに石英にまつわる “珪砂” はガラスを作るための重要な成分でもあります。
普段 ありふれた石であるはずの石英ですが、構成要素が高純度のものになると一転して希少性の高い宝石の類系となり、「水晶 / クリスタル」と呼ばれることになります。アメジストやシトリンなどもその類型のひとつですね。
往古、水晶はその名の通り水が凝結して出来たものと考えられ、大きな霊力を宿す霊石として様々な祭祀にも用いられてきました。古の文献においては “水精” の記述も見られるほど。 水晶は単なる宝飾品の域を超えて人と神をつなぐ依り代でもあったのです。
国内屈指の水晶産出地として知られた山梨県、その産出は富士火山帯に連なる地質に関わるものでしょうが、それとともに清涼な自然と水に恵まれた地勢ゆえなのかもしれません。
県中央部、御岳(みたけ)昇仙峡は、荘厳の中にも優美な景観を持ち合わせ “日本一の渓谷美” とも讃えられる景勝地であり、富士山に次ぐ人気の観光地としても知られています。 地元の水流 “荒川” を上流に向かって進むごとに現れる奇岩・巨石の乱立、包む深緑とそれを彩る季節の花々と、その景観はまるで掛け軸や絵画のような佇まい。
渓谷の遊歩道から周辺の観光施設など、現在では整備も行き届いた渓谷として “日本遺産” にも登録され多くの観光客を招くとともに、渓谷を見守るように坐す「金櫻神社」や水晶にまつわる土産物でも人気を集めるパワースポットと知られていますが、当然ながら その昔においては この地も、閉ざされた秘境といった趣きでした。
威容を誇りながらも とみに美しさが際立つ「金櫻神社」が創建されたのは、いつの時代であったか詳らかでありません。 一説には第10代崇神天皇の御代に原初をもつとも言われることから 2000年に遡る歴史由緒を紡ぐ社でもあります。
その頃、全国に疫病が蔓延し世が乱れようとしたとき、天皇は諸国の聖地に鎮護平安の神を奉斎しました。 甲斐国(山梨県)においては金峰山(きんぷさん)の山頂に薬剤を納め、医薬・まじないの神である少彦名命を祀られたそうで、以来、当山頂が「金櫻神社」の本宮(もとみや)となったのだとか。
里宮となる現在の「金櫻神社」が築かれたのは、その五百年後 雄略天皇の御代だそうで、渓谷に建つ社らしく川の流れに洗われた水晶「火の玉・水の玉」をご神体として創建されて以降、山岳信仰・修験道を習合しながら今日に至るまで多くの崇敬を集めてきました。 故に江戸時代には “蔵王権現” と呼称されたそうです。
水晶、今でこそ美しく磨き出され整えられた宝飾品として人々の目を引いていますが、往古においては極めて貴重かつ特別な場にしか置かれないものであり、また その姿は原石から割り出された自然の形そのものであったと言われています。
その原石を磨き上げる技が伝わったのは江戸時代、京の職人 “玉屋弥助” によって金櫻神社の神官に教えられたものが端緒だそうで、ここに水晶の研磨技術、そして後代に続く宝飾品製造産業の礎が築かれました。
また 当時、この荒川の辺りは渓谷地であるが故に 極めて通行に危険をともなう難所であったようで、甲府盆地へ通ずる山路であるにもかかわらず、足元をすくわれ怪我に至る人が後を絶たなかったようです。
水晶の研磨技術が伝えられたのと同じ江戸時代、巨摩猪狩村の農民 “長田円右衛門(ながたえんえもん)” が、猪狩村の名主であった叔父 長田勇右衛門の協力を得て この山路の整備をはじめました。 わずかな人数で取り組んだ事業は困難を極め、櫛の齒が欠けるように人手が離れていくこともあったようです。
土木技術も至らなかった時代、事業継続のための資金も中々に集まらず、私財を投げ打って地元の経路開発のために黙々と土を掘り岩を動かした円右衛門。その宿願が果たされたのは着手から9年経った天保14年(1843年)のことだったと言われています。
円右衛門によって開かれた渓谷沿いの道は、地所通行の便を飛躍的に高め里人の暮らしを豊かにしたわけですが、その恩恵はそれだけに留まりませんでした。 道が開かれ この地を訪れる人が増えたことにより、昇仙峡の美しさが世に知られる契機となったのです。
現在では「日本五大名峡」に数えられ 年間20万人の観光客を集める昇仙峡、元々は荒川の名も無き谷川であった地の壮厳な景観が知れ渡り、明治時代になり訪れた文人によって「仙境に昇るごとき心地」と讃えられて以降「御岳昇仙峡」の名が広まりやがて定着していったと言われています。
身を投じて渓谷の道を開いて里の便利に尽くし、結果的に観光地への発展と宝飾産業への拡大にまでつながる端緒を築いた “長田円右衛門” 、晩年は経路の中程、秀麗な景勝 “仙蛾滝” のたもとに小さな庵を結び、そこで旅人の休み処を静かに営んでいたと伝わります。
遠く 厄災鎮護の祈りの頂に通ずる秘境の地は、数多の光陰を数えて玉磨く里となり、やがて万人に知られる観光地となりました。 しかし、その背景にはその地で粛々と生きた者、技を磨いた者、そして夢を叶えるため全霊を傾けた者、それぞれの想いと熱意が息づいていたのです。
冬(12月1日より翌年3月31日まで)路線バスの終点が変更されるなど、冬季にはかなりの冷え込みもあり観光には少々厳しいものもありますが、雪が解け春日が差す頃にはまた新緑と岩を磨く流れの新しい昇仙峡に出会えます。
路傍に建つ “長田円右衛門の碑” も 新しい季節を待ち焦がれているに違いありません。