寛政の凶災 島原大変肥後迷惑(前)- 長崎・熊本

本年7月3日、静岡県熱海市伊豆山地区に発生した大規模土石流災害で被災された皆様に心よりお見舞い申し上げるとともに、失われた尊い生命に心より哀悼の意を捧げます。

また、同時期 全国各地で見舞われた土砂災害・水害等の被災者の皆様にも心よりお見舞い申し上げます。

地震、台風、豪雨、そして津波災害と古来より自然災害と隣り合わせの地勢・風土の中で生きてきた私達日本人ですが、近年の世界的な気候の変動に端を発するとみられる 日本そのものの気候の変化、そして活断層活動の活発化などにより頻発する地震現象と、何分にも落ち着き難い時勢が続いています。

目に見えず、いつ起こるか分からないのが “災害” の本質であり、それだけに日頃の備えと心構えが求められるわけですが、それでも人の思惑を超えて発生し、一度起これば甚大な被害・被災者を出す自然の驚異は、虚しくも人の御せるものではないのでしょう。

 

古来、日本の神話において自然の有り様は神の姿そのものに例えられ、日々、天上にあって日差しや降雨を注ぎ、実りを結ばせる自然の恵みを 神の ”和魂(にぎたま)” 、干ばつや豪雨でもたらされる自然災害を ”荒魂(あらたま)” と呼んで畏れてきました。

人々の平穏な生活とは、まさに自然のあり方そのものの中にあり、自然に即した慎ましやかな生活こそが、人にとってあるべき姿勢であったのです。

しかし、どれだけ自然に即した生活を送っていても、災害はある日突然やって来ますし、それを止めることなど出来ようもないばかりか、時に想像を遥かに超えた被害と苦しみをもたらします。

人間の歴史とは自然への共生と抵抗が併存したものなのでしょうか。

 

長崎県には二つの “九十九島” と呼ばれる島嶼群があります。
ひとつは佐世保市から平戸市にかけての沿岸に形成されたリアス式海岸 “九十九島(くじゅうくしま)” 、もうひとつが島原市の海岸沿いにある “九十九島(つくもじま)” です。

西海の九十九島は侵食・海面変動で出来たものですが、島原市海岸の “九十九島(つくもじま)” は そうではありません。 ある日突然、上から降り注いだ莫大な量の土砂が 海面から遥かに突き出すほど積み上がって形成されたものなのです。

今から230年前、有明海を中心に発生した未曾有の土砂災害とそれにともなって引き起こされた津波災害も、瞬く間に想像を絶する被害もたらした大災害でした。後に「島原大変肥後迷惑」と呼ばれる苦悩の記憶です。

 

寛政4年4月1日(1792年5月21日)の夜、 肥前国島原(現在の長崎県島原市)、二度に渡る強烈な地震の後、雲仙岳の僚峰 眉山が山体崩壊を起こしました。

通例の山崩れでも甚大な被害を招くのに、800メートル級の山の南壁一帯が一瞬にして崩れ落ちる。信じられないような光景だったに違いありません。

3〜4億立方メートルともいわれる膨大な量の土砂は、まさに山そのものが襲いかかるかのように島原城下の町や村を薙ぎ払い、埋め尽くしながら海になだれ込みました。
土砂の先端速度は時速156kmにも達していたと推測されています。

しかし、それは悪夢の前半でしかなかったのです。

 

怒涛のごとく島原の湾内に流れ込んだ土砂によって瞬発的な津波が発生、有明海を放射状に災禍の輪を広げていきます。

直接 土砂災害の被害を被っていなかった島原沿岸地域も、この津波の侵攻をもろに受けることになってしまいました。折悪しく満潮の時刻でもあったことも重なり、その波高は10メートル、遡上高は20メートルを遥かに超えていたといわれています。

そして 発生から20分後には 対岸の肥後国(熊本県)天草に津波が到達、沿岸地域に壊滅的な打撃を与えた後、さらに その反射波が島原に向かって押し返されたことにより第2波による被害を生むことにもつながりました。

悪夢が明けて顕になった人的被害だけでも島原側で10000人、天草側で5000人に上るとされ、歴史上 日本屈指の大災害となってしまったのです。

中身がみっちりと詰まった東京ドーム250個分とも言われる膨大な山塊、大津波を引き起こした後、散らばるように海上に残り見えるのが現在の九十九島(つくもじま)というわけです。

© 株式会社長崎新聞社 様

 

ある日突然、それまでの生活と生命の全てを押し流し 奪い去ってゆく大災害ですが、時により、その前兆を把握出来る場合があります。 この「島原大変肥後迷惑」災害にあっては、何と半年前からその胎動が始まっていたと伝わります。

にもかかわらず、ここまでの大災害となってしまった理由とは何でしょうか?

最も大きな要因というならば、そもそも山体崩壊などという稀有の災害が想定出来ず、いわんや それによる大津波の発生など 考えも及ばなかったことが主因ではありますが・・、

どうも、それだけではなかったようにも思えるのです・・。

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