食うも食わぬも仏の道 那須野湯本から(前)

画像はイメージです。

5月も後半、暖かさも日に日に増してきました。 例年に比べ異常に早い梅雨入り、そして初夏を間近に控える今日この頃、気温や湿度の変化も大きな季節の変わり目です。コロナ終息への先行きも見え難い中、基礎的な体調管理にも気をつけていきたいものですね。

ウィルスという目に見えない脅威であるが故にその対応は難しく、また 人それぞれの感覚も異なることから中々に効果的な抑制に至らないのですが、”目に見えない脅威’ というものは何もウィルスだけに留まりません。

 

社会的な不定形の脅威はさておき、自然由来の不可視の脅威のひとつ、今日でも稀に人身事故が聞かれる災害に、温泉地における硫化水素ガスによる中毒事故があります。

一般的な温泉宿の中でそのような事故が起こることはありませんが、貯湯施設の内部や温泉地の周辺、地熱が高く硫黄の匂い※が立ち込めるような場所には、硫化水素やメタン性のガスが噴出し蓄積されることもあるので要注意です。(※ 正確には硫化水素ガスの匂い、”硫黄”自体は無臭だそう)

硫化水素ガスは腐敗臭がキツいのですぐ解ると思いがちですが、その成分には臭覚を麻痺させる作用があり、尚かつ一定の濃度を超えると(高濃度になると)臭気自体を感じさせなくなるそうで、目はおろか鼻でも感知し難くなるそうです。

空気よりも重たいために低い場所に流れ、窪地となった所などに溜まりやすくしばしば死亡事故を引き起こしていますので、温泉地観光などで このような奇景に接する場合はご注意された方が良いかもしれませんね。

 

自然に基づくものならば往古から このような危険・事故があったのも当然で、邪気に触れて突然に命を絶たれる凶事として、古の人々には恐ろしくも不思議な現象として捉えられていたのでしょうか・・。

古代中国「殷」の悪妃 “妲己(だっき)” や「周」の “褒姒(ほうじ)” が その元たる “妖狐” とされ、日本に流れてからは鳥羽上皇の寵妃となった「玉藻前(たまものまえ)」

上皇の精を吸い付くし世の災いを招いた玉藻前は、陰陽師・安倍晴明の血を引く5世孫・安倍泰親(あべ のやすちか)によって その本性を見破られ、白面金毛九尾の正体を表して後は下野国那須野へと逃れて ここでも猛威を振るったものの、朝廷の放った討伐軍にやがて追い詰められてゆきます。

一匹の蝉(セミ)に姿を変えて木に停まり 軍の攻撃をかわそうとした玉藻前でしたが、池の水面に映ったその姿から見破られ、ついに討ち取られたのだそうで・・。

地に落ち伏した妖狐は一塊の巨石へとなり変わり この凶事も落着かと思われました。
しかし それでも妖狐の強大な邪気を放って止まぬこの石は、近づく人畜はもとより鳥や草木に至るまで、その命を吸い殺してしまうために村人から「殺生石」と呼ばれて恐れられました。

後に曹洞の僧 “源翁心昭(玄翁)” によって打ち砕かれ鎮められた「殺生石」の残骸?は、その伝承とともに今に伝えられていますが、玄翁上人の法力が効いているのか現代においては邪気の放出も抑えられ、観光地のひとつとして安定しているようです。

さて、この栃木県那須町湯本、この殺生石にも程近い地域に残る “食事” に関わる伝承を二編、前後回に分けてお送りしましょう。

 

「喰初仏」

さても今は昔

那須野 池田の名主は 村の運びも事なく治めて
村人たちからの人望も厚いまま 穏やかに過ごしておったが・・

ただひとつ夫婦して悩めるところがあったそうな

それは祝言上げて後 久しくして得た我が子のこと

日々 神仏に願掛けて ようやく授かった目の中に入れても痛くない可愛い我が子であったが
この子どうしたわけか五歳を数えるというに 未だ何らのものも食うことが出来ず
また声を出して喋ることも出来ん

只々 黙々と母親の乳を飲むばかりであったそうな・・

 

このような有様 我が子の行く先を思えば思うほど あまりにも忍びない

悩んだ母親は村の外れにある日蓮上人縁の石碑へと願掛け
どうか この子がもの食えるようにと 人並みに喋ることが出来るようにと
雨降る日も 雪積もる日も 休むことなく参り願いを捧げたのだと

 

すると ある夜 母親の夢枕に日蓮上人が立ち こう告げられた

「おまえたちの日頃の行いと祈りに免じて救いを授けよう・・」
「明日の朝 この碑に生えている苔を採り 子に飲ませるがよい」

この夢のお告げに母親も父親も天にも昇るような心持ちで喜び
夜が明けるやいなや夫婦揃って石碑へと出掛け 感謝を捧げると
お告げのとおり苔を取って持ち帰り 子に飲ませたのだと

 

ところが どうしたことか 煎じた苔の湯を飲んだ我が子は間もなく呻き出し
胸を掻きむしって苦しんだかと思うと どす黒い血を口から吐いてのたうつ有様

思いもよらぬ ことの成り行きに慌てふためき 我が子の体を擦る父母であったが
子は体中を震わせ悶絶した後 ついには息絶えてしもうたのだそうな

あまりのことに茫然として やるかた無き父
自らの手で我が子を死なせてしもうたと泣き崩れる母であったと

 

ともあれ もうどうすることも出来ずに・・
せめて静かに我が子を冥土へと送り出してやろうと寝かせておいた その夜

子に掛けた白い顔掛けが ふと揺れた やにわに大きく胸をしならせたかと思うと

「お父! お母!」 大きな声で呼びながら布団を跳ね除け起き上がってきたではないか

腰を抜かさんばかりに驚いた父母であったが ようやくここに日蓮上人の霊験あらかたなるを知り親子抱き合いながら喜んだそうな

五年余にわたって子の障りとなり 親子の苦しみとなっていた魔の縁を
黒き血とともに除いた上人の霊徳

その後 この石碑は “食初仏” と呼ばれ池田の者はもとより那須野をこえて広く信心を集めるところとなったのだそうな

 

一度、子供は悲惨な形で息絶えてしまうので、現代の感覚からするとオカルトばりの再生譚のようにも感じますが、前世または当世における “因縁” を重要視する仏教説話においては時折見掛ける展開です。

親子を救う 文字どおり “礎” となった石碑「食初仏」は現在も那須湯本の『食初寺』に安置されています。

 

『喰初寺』 〒325-0301 栃木県那須郡那須町湯本227 喰初寺

喰初寺の題目碑(くいぞめでらのだいもくひ) 那須町文化協会

食うも食わぬも仏の道 那須野湯本から(後)→

 

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